見出し画像

エヴァンゲリオン -空虚からの同一化-

 まずはっきりさせておこう、「自分探し」など徒労に過ぎない、ということを。  

  精神分析、とりわけフロイト/ラカンの教えによれば、人は「語る存在」であるがゆえに、癒やされない欠如を抱えている。人は自らを語りつくす言葉をけっして手にすることはない。人は他者の言葉のネットワークの中に「存在させられる」、それだけだ。そしてここから、精神分析がはじまる。  「新世紀エヴァンゲリオン」(以下「エヴァ」)というアニメーション作品がすぐれているのは、まずこの点だ。主人公・碇シンジの「自分探し」は、結局それが想像的に——つまり擬似的に——解消されるか、あるいは探す行為そのものを放棄する以外には終わりようがないということが、とてもリアルに示されている。だからあの最終二話は、あそこに、あのように置かれるしかなかったように見えるのだ。  

 ところで精神科医として見る「エヴァ」は、きわめて「境界例」的な作品である。  

 庵野監督のインタビューには「気違い」「分裂病」などの言葉がよく出てくる。ところが「エヴァ」の世界は、およそ分裂病的ではない。「分裂病」とは何よりもまず、まともなコトバや共感が通じなくなる事態のことだ(例:カフカ、リンチ、吉田戦車)。ところが「エヴァ」という作品は、謎と仕掛けに満ちているにも関わらず、むしろ過剰なまでに「判り」やすい。この判りやすさこそが「エヴァ」の最大の魅力であり、見ると語らずにはいられなくなるのはこのためだ。  

 庵野氏によれば「分裂病が判るのは分裂病だけ(「Quick Japan」96年10月号)」とのことだが、この表現はむしろ「境界例」にこそよく当てはまる。「境界例」は「ボーダーライン」「境界性人格障害」などとも呼ばれ、分裂病と神経症の境界線上の病気というのが本来の意味だ。不安定な気分と対人関係、手首自傷などの激しい「行動化」が特徴で、いつも自分の空っぽさに悩まされている。だから孤独に耐えられず、他人との関わりを求めるあまり、はた迷惑な行動に走る。そのつもりがないのに周囲を挑発せずにはいられない。またそれが本人の魅力でもあるため、まわりの人たちも容易に巻き込まれる。彼らは自らの中心が空虚であるというイメージに敏感で、空虚の埋め合わせに他人のイメージを参照・引用-つまり「同一化」-しながら自分を支えようとする。  

 そして「境界例」の孤独と空虚は、われわれ自身のそれと本質的には同じものだ。  

 「境界例」作家の系譜には、太宰治、筒井康隆、内田春菊、島田雅彦、柳美里などがいる。もちろんこれらの作家本人が「境界例」と診断されるわけではない。彼らは作家と作品、あるいは作家と読者の関係性において「境界例」的なのだ。それはまずその作品の飛び抜けた面白さ(=誘惑の技術)や、サービスとも挑発ともとれるパフォーマンス(=行動化)において明らかになる。庵野秀明氏がこの系譜に連なりうるのは、まさに「抜群に面白いアニメ作品」をあのように終わらせたことにおいてであり、この「行動化」は例えば筒井氏の「断筆宣言」と、臨床的には同じ意味がある。その行動への周囲の評価が、好悪の両極端に「分裂 splitting」しがちであることも含めて。  

 「境界例」的な作品は、そのリアリティを「作家の人格」によって支えている。テクストの表層的な多彩さにも関わらず、物語宇宙の広がりは、作家自身の内面世界とぴったり一致する。作品への関心は、そっくり作家本人への関心と重なる。だからフィクションとして発表されたものが、作家自身の体験としばしば混同されたりする。作品のいたるところに、生身の作家自身が顔をのぞかせている。つまり「境界例」的な作品は、本質的にメタ・フィクションなのだ。「同一化」によるメタ・フィクション。  

 「エヴァ」では登場人物が、自らの外傷と葛藤についてきわめて饒舌に語る。人物の語りは庵野氏自身の肉声へと容易に転調し、語りのコンテクストが切り替わる。「境界例」の治療場面でも、クライアントに乗せられるようにして、いつのまにか治療者が個人的告白をさせられていることがよくある。「境界例」はその饒舌によって、自らの治療場面すらもメタ・フィクション化せずにはおかないのだ。「エヴァ」最終二話におけるメタ・レヴェルは、こうした「境界例」的構造のもとでこそ臨床化されうるだろう。  

 そして「エヴァ」の判りやすさもまた「同一化」の作用によるものだ。例えばアダム=エヴァ=使徒=碇ユイ=綾波レイ=母、という母系の同一化セリー。これが、生身の母親がいっさい登場しないこの物語を隠喩的に裏打ちしており、みごとな効果を挙げる。エヴァの「謎」とは、この同一化のループ状転移がもたらす効果だ。視聴者は謎の正体を正確に言い当てることはできないが、謎そのものに想像的に同一化することができる(精神分析における「母親」とはそのようなものだろう)。これが「エヴァ」の判りやすさの原因であり、その「境界例」性の土台でもある。その中心にあるものは、「綾波レイ」に象徴される作家自身の空虚=アンヘドニア(無快楽)であるのかもしれない。  

 庵野氏は自らの空虚さを媒介にして、オウムをはじめとする同時代的な危機意識に見事にシンクロし得た。そのなみ外れた同一化能力が、作家としての「境界例」性に起因するものであるなら、筆者の関心はやはり庵野氏の次の物語に差し向けられる。そこには確実に「境界例の治療論」へのヒントが胚胎するはずだ。 





 後記  本論で私が示した「エヴァ=境界例」という図式は、その後、共感、模倣、あるいは反発といったかたちで、予想外の反響を呼んだ。これはその内容というよりも、私としては珍しく、あえて挑発的な文章スタイルを選択したためもあるだろう。ここでの議論は、その後永瀬唯氏との対談(「ターミナル・エヴァ」1997、「ザ・デイ・アフター・エヴァ」1998)において、より発展的な形で展開された。  

 それにしても、この空虚なアニメーションは、至るところで鏡の機能を果たす。今、この文章を読み返して気付くのは、複数の「境界例」患者にさんざん悩まされ、鍛えられて育った一人の精神科医が、みずから境界例的なスタイルで心情を吐露しているさまだ。なんのことはない、私も鏡に見入っていた一人にすぎなかった。  

 このアニメ作品は、劇場版の公開に至って、なにひとつ謎を解消しなかったにも関わらず、作品をめぐる言説を事実上終息させた。私はそこで、自らが予見した「境界例の治療論」が、まったく予想もしなかった形で提示されるのを見た。私はまさに、「庵野秀明」という固有名の強度の高まりにおいて、境界例構造が無効化する過程をつぶさに目撃したのだ。断念を積み重ねて固有性に至ろうとすること。そのパラドクシカルな目的論の身ぶりが、臨床に治療的逆説を導入する。それでは、私はいかにして「エヴァ」を、臨床的に擁護しうるか?その問いこそが、「境界例論」にかわる、私のあらたな臨床的課題となるだろう。


※25年後の後記

 シン・エヴァンゲリオン劇場版公開を記念(便乗)して、大昔の文章を再掲します。著作権とか細かいことは忘れてご笑覧ください。

 STUDIO VOICE (スタジオ・ボイス) 1997年 03月号Vol.255 に掲載された筆者初のエヴァ論。文体とかは完全に若書きですが内容については今読み返してもそんなに違和感はありません。これが今も僕のエヴァ観の基調です。

  


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?