名前のない特別 -aiko「恋人」読解-
aikoは人生な文章書く系&小説書くオタクのtamakiです。PNはおきあたまきといいます。
2024年aiko歌詞研究・後期は「相思相愛」と「恋人」の読解で、本noteでは「恋人」稿を掲載します。
簡単なごあいさつと説明は「相思相愛」読解冒頭をご覧ください。
はじめに
「恋人」は1999年11月16日に発売された、aikoの4枚目のシングルにして世代を越える代表曲「カブトムシ」のカップリング(3曲目)として収録されている一曲である。今を遡ることもう25年も前の楽曲であり、長きに渡って愛されているaiko屈指のバラードでもある。
考えてみれば、こういったピアノとストリングス主体のバラードらしいバラードがカップリングとは言えシングルとして世にリリースされるのもこの「恋人」が初めてだったようにも思うし、静けさとしっとりとした歌い方をバラードの主格として見るのならば、いっそ1stアルバム「小さな丸い好日」に収録されている「歌姫」よりもバラードらしいと言えるように思う。もっと遡ってインディーズの頃を含めてもそう言える気がする。
私は、普段からちょいちょい言っているが、明るい曲や激しい曲よりはこの「恋人」のようなしっとりと聴かせる落ち着いた曲が好みである。その嗜好はそれこそ明確にaikoファンになった頃からそうで、故にこの「恋人」も昔から特に好んで聴いている曲だった。
ちなみに今回読解に選んだ理由としては、まあ「相思相愛」やから「恋」が付く曲が妥当やろ…あとまあaikoだし「あい」やったなら「こ」から始まる曲やろ…という実に雑な理由なのだが(雑すぎ)(まあいつもこんなもん…)のちに引用するaikobonでのコメントが思っていたよりも深みのあるものだったというのもある。
徐々に名の知られるようになりつつあった頃、後の代表曲となる一曲の裏でひっそりと収録されていた彼女の初とも言える稀代の名バラードはどのような意図で綴られたのだろうか。
資料を読む
徐々に名の知られつつある頃だったとは言え、十分なコメントが探せない時代の楽曲なもので、aikobonライナーノーツのコメント一本のみの参照で許されたい。歌詞に関してのコメントがまるでないものもある中で、「恋人」はそこそこある方だと言えた。
ライナーノーツの頭から、とても端的に「恋人」がどのような曲か説明している。「好きな歌です」とシンプルに言い切っている辺り、aikoにとっても気に入っている曲なのではないだろうか。
恋人だとか、彼氏彼女だとか、一般的に恋の相手を呼ぶそれとは違う。でも一度恋を経て別れ、その結果名前の付けられない、一生揺らぐことのない“特別”な存在になってしまった人は、誰しも一人二人思い浮かべられるのではないだろうか。
昔の関係にはもう戻れないけど、人生において極めて大切な存在。そこにはどうあっても手にすることは出来ない甘美な永遠すら見出せてしまう。「二度とは戻らない」とも歌われているし、言ってみればその人の人生においてあくまで通過点でしかないのだけど、だがそんな呼び方はあまりに情が薄い。匙加減が難しいところである。
恋人には戻れないし、恋人とは違う特別な立場なのだけど、しかし曲のタイトルは「恋人」である、というのも面白い話である。なんだかそういった名前の付けられなくなった存在もまた“恋人”と呼ぶしかない。ひょっとすると、読む人によってはaikoが暗に言っているようにも感じられるのではないだろうか。
きっぱりと言われた「恋人みたいに手をつなぐことはない」に切なさと寂しさを感じつつも、読んでいて思うのは、別れてしまっても遠くに離れてしまってもその人が「自分の中に生きている」ということである。歌詞にある「手はつながないけど 解るよ全部」がまさにそれだ。仮に今付き合っている恋人がいたとしても、その現恋人を上回るレベルでの「特別」な存在となっているようにも思う。つくづく、ずるい存在である。
リアルに年を重ねている今のaikoの地平から見ると少しフフ…となってしまうところである。この発言してるaiko今の私より若いんだよな(ダメージ)
ところで、「恋人」は私の大好きな曲でaikoの最高傑作のひとつである「ひまわりになったら」と、題材的には近いように思う。ただこの曲に比べれば「ひまわりになったら」は青く、(いい意味で)未熟で、「恋人」のあたしよりも「あの子」を求めてしまっているし、それでも「あの子」という永遠に咲くひまわりを胸に懸命に生きようとするあたしを描いている作品だとも思う。
「恋人」は曲調にも表れているように「ひまわりになったら」ほどの青さはなく、随分と達観した趣がある。この二曲の開きは推定でしょうみ数年(4年か5年?)ほどしかないと思われるが、たった数年でこれだけ違いのある曲を書けるaikoの表現力と感性の豊かさには改めて嫉妬せざるを得ない。それもまだ二十代前半の時点でこうなのだから、その身の奥深くに隠れていた感性の鋭さには時を越えた今もなおおそれおののくばかりだ。
資料読みまとめ雑感
別れてしまったけれど、別れても好きな人。それを描いた曲がこの「恋人」であるとaikoは言う。
別れたからこそ特別になったが、もう恋人に戻ることはない。しかし、想いは唯一のもので、その存在が揺らぐことはない。そばにいなくても、手を繋ぐことがなくても、今はこんな気持ちなのだろうかと想いを馳せる。言うなればその存在を身を宿しながら、あたしは生きていく。歌詞を読む前の今の時点で言えるのは、大体こんなところだろうか。
ところでさっきも年齢の話をチラッと出したのだが、このaikobonのライナーノーツに答えているaikoはおそらく29歳頃(aikobon発売は2005年3月末)だろう。「恋人」を作った頃はどのくらいかと言うと、発売が1999年の11月のため推定で23歳辺りだろうと思われる。「花火」と同じようにデビュー後すぐに作った可能性もあるので22歳の説(1998年11月以前の作品)もあり得そうだ。それを考えるとますますaikoに脱帽したくなってくるというものだ。
読解しようとする2024年現在はそれからもうずっと先の未来になってしまっていて、aikoは今や50を目前とする49歳を迎えている。なので「恋人」を作った頃というと25年以上も前のことになるはずだ。なんだか眩暈がするくらい随分昔の話である……と肌でまざまざと感じてしまうのはaikoと同じように私も歳をとっているからだろう(もうアラフォーなんですよね…)昔の曲をやるたびになんかいつも感慨にふけってしまうし無駄に字数を稼いでしまうな…(稼ぐなこんなもんで)(稼ぐ必要ないです)
1999年から25年。様々な曲を出して積み重ねてきたaikoを知る今の地点から見れば、この時点での達観を極めている「恋人」も、実際のところまたまだ達し切っていない世界観なのかも知れない。しかしあらゆるaikoの名曲は、なかんづく名バラードはこの曲を発端としているようにも思えるし、aikoの恋愛観における「別れても好きな人」の描き方もこの曲が大元、基礎となっているように私には感じられる。
何より、発売から25年経つ今聴いても名曲、としみじみ思える(そもそもaikoは全部名曲である)たまにはこういうしみじみとした曲を中心にやるライブとかやってもいいんじゃないかな……と思う(どうしても回収したい「あたしたち」チャンスを狙っていく発言)
一番と二番のみのシンプルな構成ながら「えりあし」に並んでaikoの生まれた晩秋に染みる名バラードである。ここで歌われていることは現在のaikoにも生きているはずだ。古い書物を大事に開くように読んでいきたい。
歌詞を読む・一番
誰に語り掛けているの
こうして読解をやる今だからこそようやく向き合える疑問なのだが、聴いていてずっと不思議に感じていたことがある。この一番(二番も)のAメロは「ねえ」と語り掛ける言葉から始まっているのだが、これは誰かに話しかけているのだろうか。具体的に言うと、「あなた」が目前にいたりするのだろうか。
完全に個人の受け取り方の問題になってしまうのだが、どうもそうではないように私には思える。敢えて言うならば自分に語り掛けているような、静かで密やかな歌い出しである。誰か明確な相手がいるような感じはしない。「相思相愛」が元々は内省的なものとして書かれていたのを思い出すが、これもまた実に内省的なくだりだ。
永遠は過去にこそあるめれ
問われるのは、後に登場する相手「あなた」との出逢いについてだ。「後悔してる?」の後にくる「うん」は、さすがに「YES」の意ではない。当然相槌としての「うん」だし、そもそも後悔してるなら(それを言っちゃおしまいよではあるが)後半のような歌詞にはなるまいしこんな曲でもなかろう。
「別れるのは悲しかったね」と言う通り、別れは悲しく、きっと別れたくもなかった。
だが「あの時間は確かにあった」と歌われている通り、二人で過ごした時間がなくなるわけではなく、記憶だってなくなるわけでもない。ここで伺える限りでは濁った気持ちはなく、複雑な胸中もない。ぽつぽつと静かに綴られる曲ではあるが、伺えるものは透き通る想い、綺麗なものだけになった澄んだ気持ちである。
相手にも自分にも、時間は残る。過去は過ぎたものでも消えたものでも意味のないものでもなく、歴史に刻まれるものだ。消えても、見えなくなっても、もう元には戻れなくても、「あった」ことになる。「あった」ことならば、それは永遠になくならない。私達は過去にこそ、真実の「永遠」を見出すことが出来る。
Aメロ最後に綴られる「それ あたしがあげた服だよ」はどこか残酷で切ないが、その象徴のようにも思われる。相手に別の人生が始まっていても、あたしがいたことはやっぱりなくならないのだ。
それにしても、「それ」と(これも感じ方に個人差はあるが)どこか距離を感じさせる物言いを見ると、あたしはやはりあなたと会っているのかも知れない。偶然出会ったのか、それとも遠くから見つけたのか。なんとなくではあるが、曲の雰囲気から受け取るに後者のように思う。内省的な印象もあり、一人で思い耽ってしまったという感じを思わせる。
そっちの方がしっくりくるが、あくまでここは個人の好みである。いろんな読み方が出来るところなので、聴く人によってありとあらゆるシチュエーションが浮かんでいるだろう。
笑顔をずっと忘れない
この二つのフレーズだけで「これから先の人生の中でも、ずっとあなたのことを好きでいる」ということが十分過ぎるほど表されている。それだけあたしにとってあなたは存在の大きな人なのである。
「好き」という気持ちを「好き」を使わずに表現したものとは作家の数だけあるが、「笑顔を忘れない」という表現も「好き」の言い換えとして非常に優れているように思う(ただこの書き方では、おそらく何らかの理由で別れてしまった、別れざるを得なかった二人なのだな……とは思う。これもまた実に切ない)
もう恋人には戻れない。昔のように手を繋ぐことも、愛おしく触れることもない。それでも好きな人はい続けるのだ。それらは皆、“特別な人”としか言えない人となる。
輝きの夕暮れ
このサビで歌われる「夕暮れ」のせいか、この曲の印象や雰囲気はどうも夕暮れや夕方になりがちである。秋は夕暮れ、と清少納言も書いている。「恋人」が収録された「カブトムシ」が出たのは秋の深い11月の半ばであった。
沈んでいく太陽の煌めきの中に、美しさと生きる喜びを見出すあたし。それはA、Bで歌われたように「あなた」がまだ……と言うか、ずっとあたしの心の中にいるからだろうか。あるいは、あなたと明確なつながりがなくても、そばにはいないけれど、世界の美しさに気付けるようになった、いなくてももう大丈夫だ、生きていける……と言うことだろうか。いずれにしろ、あなたが体に馴染んでいるということは相手との別れを本当の意味で受け入れた、と言うようにも感じるのだ。
あるいは──A、Bで綴ったようなあなたとの思い出が、夕暮れの美しさに重なって見えたのか。小説の風景描写としてはこちらの方が的確と言える。様々に行き交う感情とあたしが今見つめる美しさに、あたしは背を正す。
あなたが涙する時に
aikoが「今こんな気持ちなのかな」とライナーノーツで語っていたように、あなたの今の気持ちに想いを馳せる。「同じように」「泣きたい」──何か明確な関係ではないけれど、心で繋がっていたい。そう願っているのかも知れない。
そばにはいないし、別れてもいる。昔の関係に戻ることもないだろう。でも、感情は同じようにありたいと思っている。もう戻らない関係でも恋人でなくても、あたしはあなたを強く想い続けている。
それにしても「笑いたい」「喜びたい」「嬉しく思いたい」といったプラスで明るめ、前向きな感情ではなくて、「泣く」ことでのシンクロを願っている辺りが、いい意味での距離を感じさせるように私には感じられてしまうのだが、どうだろう。
この辺は感覚的なところもあるのでどうにも上手く書けないのがもどかしいのだが、あたしはあなたとの未来を、これからの人生を共に歩むことがもう出来ないとわかっているからこそ涙や悲しみを選んでいる。そう思うのだ。
一番まとめ・名前のつかない関係になっても
どこかで偶然会ったのか、あるいは遠くから見かけたのか。あたしは別れたかつての“恋人”あなたに想いを馳せる。
出逢ったことを、二人で過ごしてきたことを後悔しているかを己に問う。確かに別れは悲しかったし、出来ることならもっと長くそばにいたかっただろう。だがあたしの中で過ごした時間は「あった」こと、誰にも奪えなければ消えもしないものとしてあたしの中に残り続けている。そのことをあたしも自覚し、大切にもしているようだ。あなた側にもあたしのいた形跡は残っている。おそらく見かけた時に着ていた服が、かつてあたしが贈った服だった。あたしはきっと切なかっただろう。バラード曲であるに、その秘めた切なさが偲ばれる。
別れても、元に戻れなくても、それでも好きな人はいる。「恋人」と呼ぶことは出来なくても、その笑顔をずっと覚えている、と言うのは、忘れることはないと歌うのは──それこそ、この「恋人」が収録されたCDの表題曲は「生涯忘れることはない」と歌う稀代の名曲である──最大級の「好き」、いや「愛」の表れであろう。恋人ではないけれど、こういった“特別”な人は、きっと誰にだっている。
あなたへの切なさ、愛、かつての日々の懐かしさ、それでも、今と言う新しく始まっている日々を生きていくこと……もうあなたがいなくても生きていけるということ……様々に巡る想いを胸に見る夕暮れの美しさに、あたしは目が覚めるような喜びを感じるようになる。
ひょっとすると、あなたに偶然会ったことが何かの節目だったのかも知れない。あなたがいなくても別れても、ずっと好きなままでいても、変わらず世界は巡る。夕暮れの美しさだってずっとあったものだけれど、あたしはひょっとするとこの時にやっと目を向けられるようになったのかも知れない。
少しずつ、世界は変わりゆく。違う道はあたしとあなたをどんどん引き離していくだろう。きっと、この先もずっと。
それでも、あなたの今の気持ちをあたしは思う。泣きたいのなら同じように涙したい。嬉しいのならば笑いたい。名前のつかない関係になっても、心で繋がっていたい。きっとそう思っているのだろう。
別れても、そばにいなくても、昔に戻れなくても、強く想い続けることは出来る。あたしはずっと、あなたを想い続けている。
歌詞を読む・二番
一番Aと同じような切り口と展開で、二番Aも描かれる。
あたしじゃないひと
これもずっと疑問だったというか、「あたしじゃない」人と一緒にいるところを見てしまったのかどうなのか、と思うところである。最初は想像かと思っていたが、一番の描写を思うと本当に見てしまったのかも知れない。どちらにも取れる箇所である。もちろん、よりエグいのは一緒にいるところ、仲睦まじくしているところを見てしまったという展開だが……。
どちらにせよ肝はこのフレーズ「もう 遅いよ」である。悲しく冷たく、けれどきっぱり落とされる。
あたしとは繋げなかった左手を、あたしも遠くから見ているのだろうか。ひょっとするとあたしの手をあなたが繋げなかったことが、二人が別れる原因になったのかも知れない。大事な時に手を繋いでもらえなかったことを、あたしはどれだけ未練がましく思っているのか。そのことはあなたも後悔していると……いや、気にしていたらいいなと、あたしは密かに願っているのかも知れない。
それもそれで、あなたの中にあたしがずっといる、とも言える。まあこれはちょっと穿った湿度の高い読み方で、ここも想像の余地に富んでいる。これもまた人によって様々な背景が見出せると言えるだろう。
だからどうか忘れないで
たとえ違う人と手を繋ぐようになったとしても、それはそれで仕方がないことだ。時は進んでいってしまうから、あたしもあなたもそのままではいられない。
だから、というかだからこそ「忘れないで」と願うのだ。あたしのぬくもりと、あたしがわがままにあなたを愛していたことを、どうかずっと覚えていてくれと。それこそあたしが笑顔を忘れない、ずっと覚えていると一番で歌っていたように。同じくらい心に残り続けて欲しいとあたしは遠くから願うのだ。
「忘れない」ことや、それが恨みや未練や悲しさであれ何らかの形で相手の心の中に自分が残ること、一種の永遠になることはaikoの楽曲でよく描かれる昇華の在り方であり、aikoの恋愛哲学の一つとも言える。昨年の「アップルパイ」読解でも言及していて、私はこれを「永遠になる」とか「誰にも奪えない自分だけのものにする」という風に書いたと記憶しているが、「恋人」でもそれを願っている。あたしにとってあなたが特別なら、あなたにとってもあたしは特別でありたいのだ。
こう書いているとやはり思い出すのは「ひまわりになったら」で、あの曲も二番サビ終わりの「あたしもいつまでも あの子のひまわり」にてあの子にとっての特別で在りたいし、在るつもりなことが歌われている。「恋人」一番は「あなたはあたしの特別な人」と言う風な流れだったが、これから来るサビのことを思うと「恋人」二番は全体的に「あなたの特別で在りたい」ということがテーマになっているのかも知れない。
最大級の愛を
もどらない。可能不可能のニュアンスが強い「戻れない」よりは、自然とそうなってしまったと読ませるような「戻らない」の方が、時間が経っても戻ることはない、もうどうあっても二人が共に歩んでいくことは出来ないと思わせ、より切なさを深めている。
もう戻らない。どんな関係にもなれない。別れてしまえばそれまでで、あたしがこう言い切ってしまっている以上そうなのだ。その代わりに、名前の付けられない特別な存在と関係になった。明確な名で呼ぶことは出来ないけれど、きっとずっと心にあり続ける。そんな特別な人に。
もう戻れない、戻らないと感じているあたしが、あなたの「誰にも負けない幸せ」を願う。
これは最大級の「愛」としか言えないと思っているのだが、どうだろうか。見返りらしいものなど何も求めていない。あるとしたらサビの「あたしの存在も……」くらいだろうか。いや、幸せになってくれることこそが見返りなのだろうか。とにかく、ただ相手を大切に想う気持ちは音楽的な盛り上がりも相まって深くリスナーの心に響いてくる。
逆に言うと「愛」になってしまっているから、二人は戻れないのかもしれない。これだけ清らかで穏やかなものは、激しい恋とは言いづらい。この気持ちに時に人を苦しめ狂わせる「恋」を付けるのはあまりに合わないように思う。
番外編・もうひとつの「誰にも負けない」
今回読解の為に聴いていて、ふと思ったことがある。
先ほども書いたがこの二番Bメロが「恋人」では一番心を込めて、力んで歌われている。それもあって思ったのだが、ここで綴られる「誰にも負けない」にはひょっとしたらもう一つ意味があるのかも知れない。
それは、あなたの幸せをあたしが“誰にも負けない”くらいに願っているのではないか、ということだ。それこそ、今のあなたの恋人であろう「あたしじゃない」人よりも深く深く、誰よりもその幸(さいわい)を願っているのだ。そう読んでみると、この曲で一番力が込められている箇所は一番人間くさいというか、いい意味での執着と言うか、かつて恋人だった自分への自負や自信を感じて良いのではないか、と思うのである。
恋人でも友達でもないけれど、あなたの幸せを願っている一番の人になりたい。そういう想いも感じさせるaikoの歌唱である。ここでもまた、「相思相愛」読解の資料読みの時に感じたように、音楽だからこそ文字には乗らない言外の想いを読み取ることが出来る歌詞と言う特殊な文学の良さを感じるのである。
まあしかし、今ここで綴ったこれは根拠が全くない「そうとも読めるね」程度でひじょ~に好き勝手言っているだけの読みである。でもそう読むとグッ……とくるな、という個人の好みによるただの好き勝手な感想に近いので、全然読み飛ばしで構わない。たまきが勝手に言ってるだけです。
心を落ち着かせる人でありたい
あたしはこの先、あなたにとって心が落ち着く存在になりたいと願う。それもまた名前の付けづらい存在だ。やはり(既に書いたが)モチーフ的には「ひまわりになったら」に近く、「あたしの存在も」のところはさっきも引用した「あたしもいつまでもあの子のひまわり」を思わせる。「あの人の歌」が誰の何を示すかは謎だが、aikoは歌手であるのでこの部分は言うなれば私小説の趣を感じる次第である。
全体的に「この先どうするか、どうありたいか」を綴ったサビであるように思うし、歌詞の通りあたしの気持ちも落ち着いている下りに思う。「恋人」という曲の感情のピークは二番Bだったのだろう。このサビはさながらエピローグだ。
手を繋がなくても
「手はつながないけど 解るよ全部」──あたしはそう言う。
この、「手はつながないけど」に注目したい。今回読んでいて「手はつながないけど解るよ全部!??!?!」と今更ながら二度見してしまったのだ(初めて聴いてから二十年以上経ってるんですがそれは)
まず、このフレーズは二番の歌い出し「ねえ 左手つなごうとしてる? もう遅いよ あたしじゃないでしょ」とリンクしている結びのフレーズで、aikoがどこまで意識していたかはさておき技巧的な意味合いでこう綴られているのだと思う。
しかし思い出して欲しいことがあって、aikoという作家は言葉より何より「肉体での触れ合い・繋がり」を最上の是としていることは、これまでいろんな読解でも触れてきたことだし、読解を読んではいないけれどaikoの曲を聴いている人ならば、まあなんとなくわかってもらえることだと思う。aikoは肌に感じるフィジカルな感覚をわりと執拗なまでにこだわっていると言ってもいいし、もし本人に直接聞けたとしてもおそらく頷いてくれると思う。
それなのに「恋人」の終わりのフレーズにおいて、あたしはその「肉体での触れ合い」を捨てている。別れているのだからそもそも繋がりも何もなくて、手は今更恋人のように繋げるわけもない(aikoもライナーノーツでまさにこう言っていた)もうそこにこだわる地点を過ぎてしまったのだな……と思うと切ないが、しかし、そういう状況であるのに「つながないけど 解るよ全部」と言ってしまえることは、結構すごいことなのではないか? と私としては思うわけである。
体での触れ合いも当然なく、aikoも言っていた通り恋人のように手を繋ぐこともない。関係はすっかり解消され、二人の間には名前だってなくなってしまった。あなたのことを、恋人とも友達とももう呼べないのだ。特別な関係においてのみ許された触れ合いでの気持ちの共有は、今後一切起こることはないだろう。
それなのに「つながないけど 解るよ全部」とあたしが言い切ってしまえることは、Bメロの「誰にも負けない幸せ願ってる」で見返りを求めず幸福を願えたのと同じように、ある意味ではすさまじいくらいの愛がある……と言えるのではないだろうか?
自分にはこれだけの愛があるのだ、と密かに(そんなつもりはなくても)マウントを取っているようでもある。正直、最後にこんな強い愛を見せつけてきたのかと読めた時、純粋にすごい曲じゃない? これ……と少し放心してしまった。最後に明かすところが、これだけ強く想っているし、今もなお気持ちはここにあるのだということを暗に感じさせる。
だが、それでもあたしは、二人は戻れないのだ。それを何よりわかっているのが他ならないあたし自身であることは、やはりひどく切なく心を打つのであった。
烈しさのあとに残るもの
そうだ。そう読める一方で言うなれば「繋がなくても繋げなくても」よくなった、ということとも読めるのである。もしまだ強い未練があるのならば「繋げないなんて!」「繋がないとわかんないよ!」となるはずである。勝手な推測ではあるが、きっとあたしにもこういう激しく揺れ動いた時が、別れた直後にはあったのではないだろうか。
そういう烈しい時期を経て、なお生きる想いがあった。今のそれはとても心安らかなもので、どんなものより美しく澄み渡っている。そんな透き通る想いを綴ったのが、この曲だったのかも知れない。
二番まとめ・穏やかな愛を今は
あたしはもしかしたら、「あなた」が今の“恋人”と一緒にいるところを見てしまったのかも知れない。そしてあなたが手を繋ごうとしているところもまた見てしまったのだろうか。
思い出すのは繋がれなかった自分の左手だ。二人の別れは「つながれなかった、つなげなかった」ことにあるのかも知れない。ひょっとするとあなたの方も、この「つなげなかったこと」を後悔しているのかも知れない。
だが、もう遅い。もう二人は別々の道を歩み、あなたは別の人と日々を生きている。
あなたもあたしも、そのままではいられない。だからこそ、「忘れないで」と願う。今はこのように穏やかになったあたしでも、かつてはわがままにがむしゃらにひたむきに、あなたを愛していた。
忘れなければ、それは一つの永遠になる。あなたがあたしにとって忘れ得ぬ大切な、特別な人であるなら、あたしもあなたにとってそうありたいのだ。
もう恋人でも彼氏彼女でもない。戻れないし、時間が経っても戻らない。けれども、唯一の人、特別な人だ。
そんなあたしがあなたに「誰にも負けない幸せ」を願うのは、ある意味では究極の愛の姿を見たようにも思う。これだけの「愛」であるなら、「恋」に戻れず、従って恋人とも呼べなくなったのも仕方ないのかも知れない。「恋人」は、穏やかな愛を描いているとも言えようか。
心を激しくかきたてる、恋情を燃やす存在ではなく、心が落ち着く存在になりたい。あたしはそう願う。二人はもう「恋」を通り過ぎた。名前はつけづらいし、的確な呼び名は存在しないのかも知れないけれど、そんな存在もまた恋人と並んで大切な存在である。
手はもう繋げない。「握手はあっても恋人のように手は繋げない」とaikoも語っていた。それでも、あなたのことがあたしにはわかる。それは、さらっと言ってはいるけれどとてつもないくらいのすさまじい愛だ。あたしにそんなつもりはさらさらないだろうが、そう最後に言い残すように歌うことは、穏やかな愛に変わった今も、気持ちには莫大なものがある、ということだ。
でも、「つながなくても」であることはやはり切ない。もうあなたの手のぬくもりは、繋がりは、求めなくてもよくなったのだ。そういう烈しい時期はとうに過ぎ去ってしまった。それは切ないことだ。でもその切なさこそがこの曲の主題であったように思う。
別れた今でも好きな人。名前の付けられない特別な人。恋人とは呼べなくても、恋人としか言いようのない人。
そんなあなたを、あたしは遠くから想う。短い逢瀬に切なさと少しの寂しさを感じながら、幸せを願う確かな愛を胸にあたしはあなたのいない日々に戻っていく。曲もあたしの穏やかな気持ちにシンクロするように、静かに静かに閉じていくのだった。
おわりに
「別れても好きな人の曲」とはaikoにも枚挙に暇がないほど沢山存在するわけだが、この「恋人」は初期(今の地平から見れば)に出たとは思えないくらい老成しているというか、その当時のaikoの達観した眼差しが深く表されている一曲だった。
なんだったら今出てる曲の方がまだ人間くさいというか良い意味で未熟な想いが表されているまである気がする(念の為に書いておくがaikoが成長していないとか子供っぽくなったという話では勿論なく、いろいろな作品を書けるようになったのだなという感慨である)(わかってもらえるとは思いますが念の為)
25年経った今聴いても全く遜色なく聴こえるのは、いかにこの「恋人」が名曲であったかということをつくづく感じる。個人的には、「2度とは戻らない」のに「誰にも負けない幸せ願っている」と綴るのは本当に愛だなと思う。読解中にも書いたがその幸せにあたしはおらず、見返りもない。それでも幸せを願えるのはまごうことなき愛としか言いようがないと思う。
その一方で「恋人」が出た頃と言うと、アルバムで言うなら「桜の木の下」や「夏服」の頃であるが、じたばたしている醜いあたしを歌う曲もあれば、一喜一憂したり苦悩している曲もあったり、「恋人」と同じくらい達観した眼差しを見せた曲もあって、振り返って見れば当時から幅が広かったように思う。
そのaikoの持ち味とも言える「幅」は今もなお広がり続けているのだ、と思うとシンプルにすごいことだと思う。未だに新しいなと感じる曲もあれば、aikoっぽいな~(歌詞がというよりメロディーが)(今年で言うと「skirt」とかそうだった)と「らしさ」を感じるところもあって、こういった芸術家になりたいものだ、と相変わらず羨望を抱いてばかりである。こうやって私は一生aikoを追いかけていくのだろうなと思うと、aikoが最近よく言うように長生きしよう、少なくとも今を頑張っていきよう、と心に誓うのだった。
今もなお聴く人を惹きつけてやまない名バラード「恋人」。発売時期が発売時期なだけに、秋の深まる今日のような頃に聴くのがいいのではないだろうか。名前の付けられない特別な誰かを想いながら、そして幸せを願いながら聴くのも、曲の印象をより豊かにしてくれるかも知れない。
そして、根拠のない妄言
ここから妄言パートです。読解の真面目さは捨てるよ~~~~ん
いや~しかし恋人じゃないのに、本当に「恋人」としか呼べないような、そんな存在の曲でしたな。やっぱり、だから「恋人」なのかなタイトル。最初の方にちょろっと書いたけど。ここの真意を知りたい。
タイトルと言えばこの読解のタイトルどうしようね。「生涯の恋人」でいいか? なんちゃって~。「生涯の恋人」懐かしいな~もうこれもaiko老人会ネタかもしんないな。
そういえばこの曲音源iPodに入れよう入れよう思っててずっとやってなかったな~。買うのチョトめんどいな。サブスクにあるかな?(検索)おおっあるやん~さすが吉田美和さん天下のドリカムだわ朝ドラ主題歌二回やってるだけある(関係ない)(どさくさ)
早速聴いちゃお~ あっ、歌詞も見れるね。読んじゃお(tap!)
……。
………………。
……………………!??!?!?!?
あっあのさァッ!
私……気付いちゃったんだけどさァッ!?!
もしかしてこの曲、「恋人」って……
aiko版「生涯の恋人」ちゃいます!??!?!?!
と言っても吉田美和さんのこともドリカムのことも詳しくない、専門家じゃないし下手なこと言えない……。
ちなみにこの曲の初出は1995年で「恋人」よりも4年も前のこと。aikoがまだ二十歳になるかならないかの頃にリリースされた吉田美和さんのソロアルバム「beauty and harmony」に収録されています。アルバムのwikipediaでは「生涯の恋人」の項目に「aikoが自身のラジオaikoのオールナイトニッポン.comにて、この曲をモチーフにしたコーナーを行っていた」とあります。私もヌルコムで知りました。コーナー名がこのタイトルでした。
ところでドリカムも美和さんもaikoが影響を受けたアーティストの一組(一人)であるのは有名な話である。全然どうでもいいんですけど「キスでおこして」めっちゃドリカムみあるよね(マジでどうでもいい)
だし、aiko版とか言っちゃったけど、もしかすると「恋人」というタイトルはこの曲へのオマージュがあったりするのではないか…というのは全く荒唐無稽な話でもないようには思います。いや全然根拠ないから妄言コーナーなんだけど。たまきが勝手に言ってるだけですからね、広めないでね。
てかそうか……二十歳になるかならないかの頃だったら作曲始めたばっかりの頃だなあ……推測ではあるけどアルバムちゃんと聴いてただろうし、何しろコーナー名にもするくらいだもんなあ。
aiko ドリカムでググったらいにしえツイートを発掘してしまった。ツイート自体も10年前だし書いてる内容は24年前だよ。。。
ここにもあるようにドリカムのカウントダウンライブにお呼ばれするくらいだし、確かその数年後のオールナイトニッポン(だったはず)のイベントで「マスカラまつげ」一緒に歌ってたなあ(確か「花風」が出た年だったように記憶してるけど違ったらごめん。いや「アンドロメダ」かもしんない)ということでaikoとドリカムはそこそこ縁深い関係ですね。
まあでも「すごいリンクするなあ」というだけでaikoそんなこと考えてないと思います。ここは百パーセント与太話です。
でもこの「生涯の恋人」のことを考えると、いろいろと腑に落ちるというか、特に何故「恋人」というタイトルにしたかは、かなり納得がいったんですよね。
この曲の影響があったかも知れない可能性はやっぱり……まあ微レ存くらいですけど、「何かしらあっても、おかしくはないなあ」という程度には感じます。はい。しらんけど。
「生涯の恋人」はaikoのことがなくてもとても好きな曲なので、是非聴いて欲しいです。もしかしたら「恋人」はこの曲の影響下にあったのかなあ、なんて思いながら聴くのも、曲の聴き方は人それぞれなので、いいかも知れないですね。
ということで「恋人」読解noteこれにて本当におわり!です!お疲れ様でした。この妄言のところまで読んでくださった方がおられましたらあじがとうございましたです。
来年前期は「夢の中のまっすぐな道」発売20周年を記念して(は!??!20周年!??!)夢道の曲を読みたいと思っていますが、スケジュール的に厳しい予感がしますので「星物語」だけになるかもしれません。
ていうか……そうしよ……。なんせデビュー記念日の前の週末、Kアリ遠征してるからね…(もうチケット当たるていでいる)当たらなくても配信で見るからね。
何の話かというとaikoと同じくらい大切な存在であるコンテンツ・アイドルマスターSideMの10周年ツアー千秋楽の周年ライブの話です。これがあるので来年にツアー(LLP)生やすなら7月以降だとありがたいんだぜ!
と今まさにライブが終わったであろうLLR10大阪会場に気持ちを飛ばしながら記事を閉じます。ありがとうございました。