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マレーシア散歩日記2. 僕は普段、民族よりグミのことを考えている。

初めての国に行くときは、その国の歴史や経済、文化等を一通り勉強する。
僕は、何も知らずに国立新美術館でマティスを見ても、十分に楽しめない。
東京堂書店の奥の棚で、誰にも見つからないように息を潜めていたその本は「マレーシアを知るための58章 (エリア・スタディーズ)」という本だった。(マレーシアに関するまともな書籍は少なく、この本が僕が見つけた中では唯一のものだった。)
僕はその本を行きの飛行機の中でタフグミを食べながら読んだ。経済、文化、歴史を包括的に説明した良書だった。
これまで僕が足を止めなかった本棚には、こんなに面白い知識が並んでいるのだと改めて思い知らされた。

マレーシア旅行の1日目、僕はマレーシア国立博物館に向かった。
彼らの歴史の成り立ちや現在の社会の構成について、書物よりも近いところで感じたいと思ったからだ。

マラッカ海峡沿いに位置するマレーシアには昔から多くの民族が行き交った。最初にこの土地に根を下ろしたのはマレー人たち。彼らは、穏やかな熱帯の風と共に生き、島々を繋ぐ交易の流れに身を任せていた。

その後、15世紀にはマラッカ王国が成立し、東西を繋ぐ交易の要所として栄える。ここに集まる商人たちは、南シナ海を渡ってやってきた華人や、遥かインドの地からやってきたインド人たち。それぞれが異なる夢と文化を持ち寄り、この土地で交わった。この頃にイスラム教が持ち込まれた。

モスクは街中はいたるところにある。

19世紀にはポルトガル、オランダ、そしてイギリス。欧州の列強がこの豊かな土地を巡って争い、やがてイギリスの支配下に入ると、マレーシアの運命は大きく変わる。華人たちは鉱山や商業に、インド人たちはゴムやココナッツのプランテーションの労働力として呼び寄せられ、多くの異なる民族がこの地で混ざり合い、独自の文化を築き上げていった。

博物館にはココナッツ産業の説明専用のパネルまである。

時は流れ、第二次世界大戦が訪れる。日本軍の支配は短期間であったが、その影響は深く、この地の人々の心に深い傷跡を残した。そして、戦後、ついに1957年、マレーシアは独立を果たす。マレー人、華人、インド人、その他の民族たちが一つの国の中で共に暮らす道を選んだ。

日本占領時のパネル

異なる文化や宗教、言語を持つ彼らが一つの国として生きていくことは決して簡単ではなかっただろう。時には、衝突や不和も生まれる。実際に、東マレーシアのサバ州の自治権などについては、未だに議論がなされている。
しかし、そんな複雑な状況の中でも、人々は少しずつ共存の道を探し続けている。

日本では、当たり前のようなそれらの事実に、意識を向けずに過ごすことができる。
少なくとも僕は、「自分が日本人であることは本当に正しいことなのか?」という問いかけなどせずに、毎日コーヒーを飲み、居室のフィカスに水をやり、グミを食べたりしている。
しかし、それは個人のアイデンティティの根幹となるセンシティブな問題なのだ。
それ故に、マレーシア政府にとっても重要な問題であることは、街中の国旗の数から察しがつく。

そんな事を考えながら、博物館からの帰りに眠らない街と称されるBukit Bintangを歩いていた。現地時刻で23時を回り、雨も降っているというのに、その活気に、人々のエネルギーに、目が眩んだ。
そのような健全なエネルギーを夜中に感じられる街が日本にあるだろうか。僕の頭に浮かぶのは、大学生が嘔吐をして這いつくばっている渋谷のクラブ街や、ネズミが走り回る歌舞伎町だけだった。
交差点の一角が人で賑わっていた。ラフなTシャツを着た若者や、母親の手をつないだ少女、ヒジャブを被った老女まで、路上バンドの演奏に合わせて曲を歌っていた。

それは、その時の僕にとって、あまりにも眩しく、シンボリックな演奏だった。
大合唱を聴きながら考えた。もし、マラッカ海峡に違う風が吹いていたら、ここに集まった人々の物語はどうなっていただろう。 きっと、今とは違う音楽が鳴り響いていたに違いない。



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