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【感想文】いずこへ/坂口安吾

『偉大なる破壊は奈落でヨイヤサ』

主人公の<私>は、個人の主体的自由を人生において実現しようとしている。一方、作中に登場する3名の女性は、近代的自我がもたらす弊害の象徴として描かれている。

著者は、この2点を対峙させながら、戦後の日本における個人主義の成立過程を示そうとしたのではないか。

その根拠を以下、説明する。

まず、冒頭で挙げた「近代的自我がもたらす弊害」というのは、「虚栄心」「自尊心」「劣等感」の3点から構成される各要素の集合体の事であり、その象徴として、「アキ」「私の女」「10銭スタンドの女」という女性達がそれぞれの要素に対応している。

例えば、アキは、外面にだけ気を遣う陳腐なエゴイストという描写から「虚栄心」の強い女である。
次に、「私の女」は、アキへの嫉妬、そして、自身の梅毒の罪悪感を帳消しにしようとして、「私」の淋病を許容するといった打算的な態度は「自尊心」の高い女の特徴である。
「10銭スタンドの女」は、醜悪な顔面というコンプレックスを解消するために、客の男と関係を持ったり、それとは裏腹に、美男の夫に対してだけは片意地を張るといった行動から、「劣等感」に苛まれた女である。

こういった女性達の行動に、主人公の「私」は嫌悪感を抱いているのだが、それは、彼の掲げる「無償の行為」「不羈独立の魂」と彼女達の取る行動がかけ離れているからであろう。しかし一方で、彼自身はというと、自己犠牲が云々とは言い条、肉欲の奴隷に過ぎず、貞節を尽くすことができないままでいる。結局、彼は 「己れを失うことによって、己れを見出す」ことよりも、ナルシシズムという己の内面に比重が置かれているのである。こうした2つの矛盾する状況により、彼は、自身も含めた全ての事柄がどこか嘘臭く空虚で、<真実の生活> なるものはいずこへという不安を残したまま、この物語は中途半端な形で終わりを迎えてしまっている。

なぜ中途半端に終わらせたのか。

考えるに、個人主義というものは、弁証法的に内面と外面の対立を繰り返しながら洗練を重ね、やがては成就していくものだという事を著者は主張したかったからではないかと思う。

といったことを考えていたら、知らぬ間に私は間違えて女性専用車両に乗ってしまったのだが、車内の女性達による差別的な視線を浴びないよう、咄嗟に機転を利かせて、内股でくねくねしてみたり『だっちゅーの』のポーズを2分おきにしてみたりと、極めて女性的に振る舞うことで女性専用車両に溶け込み、その場をうまくやり過ごすことができた。

以上

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