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こどもがえり

最近わたしのなかに、小さい「こども」がいる。

わたしは小さいころからガーゼのブランケットを使っていて、ガーゼケットでないと、安眠できない。旅先やガーゼケットのなかった海外での生活では、じつはすこし、心もとなかったことに最近気づき、今度長期でどこかに行くときは、ぜったいにガーゼケットを持参しようとおもったほど。お正月に実家に帰ったとき、ガーゼケットがなかったために、落ち着かない夜を数日過ごしたことで、そう思いたった。

ひとりぐらしの家で夜、おふろに入って体があたたかくなってから、そのままふとんに入ると、すこしひやっとするガーゼケットがきもちよい。顔や口もとに押しあてると、安心するし、とろけたきもちになる。そのままくるまれていると、安心すると同時に、なにかを欲している自分を認識する。

このとなりにいい人がいたらどんなかんじかなーとか、ガーゼケットみたいな人にだきしめられたいなーとか、こんな感覚のキスができたらきもちよいのかなーとか、くるまれながら、おもう。
(なぜかはわからないけど、体の大きいメガネの人物がとなりにいることを妄想することが多い)

でもわたしには恋人がいない。ずっといない。10数年まえにひとり、恋人がいたけれど、その人とは手をつなぐまでしか、なかった。その人ははじめてできた恋人だった。わたしは異性愛者だが、それ以降、やわらかくつつみこんでくれる異性がわたしのとなりにいたことは、ない。つまり、キスもセックスもしたことがない。ちょっとはずかしいとおもっているけど、どうすることもできない。でも、たまにそういうことを想像すると、こわくてからだがこわばる。以前、酒の席で5歳くらい年下の男の子に、冗談で押し倒されたとき、からだがかたまった。ふるえた。そのときはじめて自分の身体性を認識した。(ガード固えっすよ、顔真っ赤っすよ、と言われた)

最後にだきしめられたのはいつのことだろうか、と考えると、それは4,5歳の子どものころ、母に、だろう。でも、あんまり記憶がないし、そのころすでに弟がいて、わたしは「お姉ちゃん」であることを当然だとおもっていたから、自分から母にハグを求めるとか、しなかった。

数年前の秋に、すこしうつうつとすることがあったので、とあるカウンセリングを受けたところ、回避性愛着障害かもと言われたことがあった。直後、貪るように関連する本や記事を読んだ。回避性愛着障害は、ざっくり言えば、人と親密になりたいけど、こわくて近づけない、というひと。ここに頼れば無条件に守ってもらえて、安心だ、という「安全地帯」が心の中にないひと。機能不全の家庭に育った人がなりやすいそうなのだが、うちはそこまでひどくなかったはず。問題はあったけど。でも、「お姉ちゃん」でいなければならなかった環境と、責任感の強い自分の性質がかけ算されて、「甘える」がしにくくなり、やがてできなくなったために、安全地帯を手放したのでは、そして回避性愛着障害と言われるに至ったのでは、とおもう。

20代は、すきな人ができても、とてもとても甘えられなかった。弱さを見せられなかったし、見せてはならない、(でもすきをどうやって表現する?)という葛藤をしていたようにおもう。唯一手だけつないだ恋人以降、片思いが実ることはなかった。実らないのがデフォルトになり、片思いしても実らないのだから動いても意味ないとおもって何も動かないのがデフォルトになり、ひとりでいることがデフォルトになった。

でも。
とにかく最近さみしくてしょうがないみたいだ。そうガーゼケットの中でぐるぐる考えると、ガーゼケットはやわらかくつつんでくれるけれど、ほんとはだれかにだきしめてほしくて、でも結局いま自分はひとりであることを認識して、せつなくなって、泣いてしまう。ぐずぐず泣いてしまう。子どものとき、こんなぐずぐず泣いたことない。

こんなにぐずぐず泣くなんて、「こども」みたいと、大人のわたしは言う。それを聞いても、「こども」のわたしは、わけもわからず泣くだけ。「こども」のわたしは、よしよししてもらいたいな、いいこいいこって言ってもらいたいな、とおもって、泣く。けど現実にはだれもいないから、あきらめて寝るしかないのだ。

これって、こどもがえりと言うのかな?アダルトチルドレンとか、内なるこどもってやつ?とりあえず、朝起きればちゃんと大人モードになってて、ちゃんと家を出られるし、日中は一生懸命仕事するし、今のところ、大丈夫。でも、わたしのなかの「こども」を満たしてあげたいと、つよくおもう、今日このごろだ。

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