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自由にことばを尽くす

ことし、Twitterを使いはじめて10年になる。

Twitterでは、親しい友人数人とだけつながり、あとはニュースやすきなものの情報を得るために、いろいろなアカウントをフォローしている。そんな使い方をしている。

アカウントには鍵をかけていて、つながっている(=相互フォローしている)友人は、プライベートでもよく会う、信頼できる人ばかりなので、ポジティブなこともネガティブなことも何でもよく書いていた。

しかし、30代になってから、ポジティブなことよりもネガティブなことを書きがちになり、Twitterでつながっているとある友人に久しぶりに会ったとき、とても心配された。20代のころのわたしは、かなり元気いっぱいなキャラで、「まあなんとかなるぜ!」というタイプだったので、どちらかというと、人を心配するほうが多かった。なので、心配され慣れていないのである。だから、この友人に心配されたとき、「心配させてしまった、申し訳ない」という罪悪感がうまれた。

さらにわたしはそのとき、すこし責められているようにも感じてしまった。「ネガティブにならないでよ」「もっと前向きになりなよ」というメッセージを友人から受け取った。(実際に友人は口に出してはいないから、真意はわからない)それから友人は「最近タイムラインが暗い感じだから、あんまりTwitter見てないんだよね」とも言っていて、その友人のタイムラインをネガティブなことで彩ってしまった自分が申し訳なくなってしまった。

前向きになったほうが、いいに決まってる。わたしだって前向きになりたいとおもってる。だからこそ、じたばたしているのをひとりでかかえすぎないように、きもちを整理するために、Twitterに吐き出しているのに、それは友人には迷惑だったのかもしれないとおもえてきてしまって、まえほど自由にTwitterに本心を書けなくなった。書くときに、「これはちとネガティブすぎる」「これは友人を心配させてしまう」と、自分なりの規制を加えるようになった。

フォローしているアカウントからは、いろいろな最新情報が得られて、べんりだ。とくに東日本大震災のときは、デマも含めてだけど、情報がすぐに入って、SNSの時代だなあとおもった。

しかし、政治的・社会的内容のツイートとそのリプライを見ると、議論がかみ合っていない場合が多く、また、誤解が生じたために誹謗中傷合戦をくり広げている場合も多く見られ、じぶんが巻き込まれているわけではないのに、こころが傷んだり、神経がすり減ったりすることが多くなった。また、日本、そして世界の、衝撃的な事件や事故の情報が毎日毎日、次から次へと流れてきて、希望が持てなくなってきた。

文字数が少ないからか、端的につよい意見を言うアカウントが多く、じぶんには関係ないはずなのにダメージを受けることが多くなってきた。(もともとニュースをじぶんごととしてとらえる向きがあるから、というのも、関係しているかもしれない)

Twitterは、わたしにとって自由な場所でなくなった。また、Twitterは、誤解の生まれやすい場所になったとおもいはじめた。これは、わたしの最近のTwitterに対する考え。

一方、noteはどうだろう。ほんとにほんとのじぶんのリアルをつづりたいから、いまのところ、プライベートで会う友人にはnoteをはじめたことをだれにも知らせていない。おかげで、自由に、すきなだけ、あれこれ書くことができている。

それから、noteではいろいろな人が、個人的な思いや考えをことばを尽くして書いていて、読むのに時間はかかるけど、Twitterよりも深い理解ができるようなきがする。おかげで、こころおだやかにすごせる。

いまのじぶんにとって必要な、ぴったりと合う場所を見つけられてうれしい。ここでここちよさを感じながら、じぶんを見つめ直していきたいな。

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