見出し画像

母の梅干し

母から届いた小包に、手製の梅干しが入っていた。

こう書くと、手仕事が好きで、いわゆる「ていねい」に暮らす母だと思われるかもしれない。でも、わたしの記憶のなかに、母が梅干しを浸けていた姿はない。

手作り上手な母をもつ人を、ずっとうらやましく思っていた。保存食や焼き菓子を熱心にこしらえたり、編み物や洋裁に時間を割いたり。そういう家というのは、インテリアもセンス良く整えられ、玄関や居間には花を絶やさず、幸田文や向田邦子のエッセイが料理本とともに本棚に並んでいるのだとも思っていた。

いまのわたしはというと、季節ごとにジャムを煮るし、梅干しや味噌を仕込む年もある。誕生日ケーキも丸ごとのチキンも焼くし、花を飾るのも好きだ。そして本棚には幸田文や向田邦子が並んでいる(残念ながら編み物や洋裁だけは、どうにもならない)。

でもそれは、わたしが憧れる景色であり、そうなりたい、そうしたいと思ってしていることにすぎず、そしてどれも趣味である。ジャムの鍋をかき回しているすぐ向こう側には洗濯物がぶら下がり、ほったらかされている子どもがテレビにかじりついている。ていねいどころか、自分のやりたいことだけを優先しているダメ親にも思う。

若くしてわたしを産み育ててきた母が、子育て以外にやりたかったことはなんなのだろう。母の若い頃の趣味を、わたしはひとつも知らない。20代、30代を子育てに費やし、6つも年の離れた2人の娘たちが巣立ったと思ったら今度は介護に時間を差し出してきた母。それもようやく落ち着きはじめたいま、手をつけたのが梅干しなのだとしたら。

わたしが母と過ごしてきた時間は、言い換えれば母にとっては子育ての時間であった。そんな当たり前のことに気づくのに、ずいぶんとかかってしまった。いま、ゆとりなど無縁だと思っている自分に、かつての母を思いなぞらえる。

母の梅干しは、わたしが作るものよりも皮までしっとりとやわらかく、そしてずいぶんとしょっぱかった。

この記事が参加している募集

ふるさとを語ろう

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?