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わたしたちは文化をつくっている

育児用品メーカーpigeonのサイト「コモドライフ」で、子育てのコラムを書かせていただいている。その原稿を送った際、編集長からこんなコメントをいただいた。

藤沢さんのこだわりであり、ご家庭の文化であり、
家族としての証というか、個性を伝えていることなんだな、
と感じました。赤ちゃんだからわからない、ではなく、
そうやって、家族になっていき、なんというか、親から子への
文化のプレゼントなんだなー、としみじみと感じました。

離乳食時期に使っていたお気に入りのうつわや調理器具についての話である。素材やサイズについて、こんな理由で選んだのだ、いまも使っているのはこんな部分が好きだからだ、というようなことをつらつらと書いた。

「文化」と言われてわたしはおののいた。当然ながら、そんな大それた気持ちで選んではいなかったし、個性を伝えていたという自覚もまったくない。けれど、この子育てを振り返ってみると、「こんなことを大切にしている」というわたしの価値観や思いは、もの選びをはじめ、見るもの、話すこと、あらゆる日常の端々から子どもに伝わっているのだと思うようになった。

先日、取材の席で、子どもが思ったように動いてくれない、なにかをしてくれないときには、「正そうとするのではなく、”親はこう思っているという価値観に触れてもらう”だけでいい」という話をいただいた。

いますぐわからなくてもいいし、できなくてもいい。子どもはその価値観に触れているだけで、いつか理解するときが来るのです、と。

親の価値観をすべて受け入れ、子もそうあるべきだという話ではない。親はこんな考えを持っている、こんな価値観を大切にしている、ということを知ってもらう。そこから先、どうするかは子どもが決めることだと思う。そもそも親がなにもかも正しいわけではないというのは、自分が大人になったいま、痛いほど感じている。

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娘は、自分でサラダや卵焼きなどの簡単な料理を作ったあと、うつわを選ぶのが好きだ。おやつのときにはメニューに合わせ、好きな豆皿をいそいそと持ってくる(忙しいときに「これ食洗機に入れられないのに……!」と思うのはわたしの勝手な都合である)。わたしがしてきたことを見ながら、なんとなく「そうするもの」という感覚が染みついているのかもしれない。

どんなものを食べ、なにを選び、どう暮らすか。それはすべて、その家ごとに違うし、正解も不正解もない。けれどその積み重ねが家庭ごとの、ひいては地域や国ごとの、それぞれに違うカラフルな文化になるのだろうか。

一日一日は、振り返ってみても平凡で、昨日と同じように見える。日記を書こうと思い返しても、なにも特別なことなどない。一日はぺらりと薄い一枚の紙切れのようで、あってもなくても変わらないようにも思える。でも、10枚、100枚、1000枚、果てしない数からなる厚みも、たった1枚から始まるのだ。ずっしりと積み重なったとき、わたしたちは思い出や歴史、文化という時間を理解する。途方にくれそうなほど遠い未来も、足元にある今日から続いている。

平凡な今日が、文化をつくっている。子どもたちの個性や未来の思い出をつくっている。そう思うと、いまこの瞬間もちょっとだけ、輝いて見える。

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