
ご自愛と甘やかしのゆくえ
「自分を甘やかすってよく聞くけれど、何をしたらいいかわからない。そもそも、それってどういうことなのかな」。
同じ小学1年生の息子を持つ友人ら(つまりママ友)3人でピザを食べ、隣のコーヒーショップでお茶を飲んでいたときのことだ。冒頭の言葉は、彼女の職場で起こったあれこれをひととおり聞き、コーヒーのマグカップが空っぽになったころに飛び出したものだった。
彼女はしっかりもので皆にやさしく、年齢こそ10ほども下だけれど母親として学ぶところも多い。職場の人間トラブルに巻き込まれ、適応障害で休職中でもある。真面目なひとなのだ。
そこに、もうひとりが答える。
「何でもいいんだよ、おいしいものを食べたり、ちょっといい鞄を買ったり、映画見に行ったり、一日中パジャマでダラダラしたり」。
そうそう、とわたしも隣でうなずいて、しかし同時に、じわじわと足元が冷えていくような心持ちだった。たぶん、どれも合っていて、どれも違っている。
「甘やかし」「ご自愛」、広義では「セルフケア」あたりも入るだろうか。メディアにさんざん取り上げられ、そして自分でも書いてきたけれど、むしろ最近はそういった言葉を使わないように心がけてすらいた。使えば使うほど、「自分を大切にする」という本質から外れて、記事はどんどん薄っぺらくなるのではという怖さがあったのだ。だって、もうこんなこと誰だって知ってるし、みんなも飽き飽きしているはずだから。
それなのに、「わからない」という人が目の前にいて、涙をこぼしている。自分はこれまでどこの誰に向けて、それを届けてきたんだろう。ほんとうに必要なひとには届いていないのでなはいか。口の中がだんだんと乾いてくる。ほとんど空っぽのマグカップを持ち上げて、すするように残りのコーヒーを流し込んだ。
「好きなものを見に行ったら元気になれると思って」とスポーツ観戦のチケットを取り、夜の試合に足を運んだのだと、続けて彼女が教えてくれた。「そっか、ご自愛ってこういうことなのかな」と言いながら。しかし出かける前には家で待つ夫と子どもたちに向けて、「ちゃんと」、「夕ご飯の準備をして」。果たしてそのスポーツ観戦は、自分への甘やかしになったんだろうか。
夫も大人なのだから、ご飯ぐらい作れるでしょうとSNSならば両断されそうな話だろう。わたしだって、そのくらいパートナーにお願いすればと思わなくもない。事実、「そんなの旦那さんにやってもらえばいいよ」と、つい言ってしまい、そして後悔した。それができない人、許されない人が世の中にはまだまだたくさんいる。
自分がしたいことを、したいタイミングでできる。その自由さ。そして「選ぶ」行為そのものだけでなく、「選べる」と思えること。そのつみかさねが、自分を大切にすることにつながっていく。飲みなさいといわれて飲むハーブティーでからだが整うことはあっても、こころまでは満たされないのではないか。もちろん、思いがけない香りに五感が放たれ、こころがゆるむことはあるだろう。行動を変えることが、こころを整える一歩になることも理解している(同様のことを産婦人科医の高尾美穂先生も言っていた)。
だからといって、クリームがたっぷり乗った甘いケーキを食べたり、パートナーに内緒でちょっと高価なワンピースや美容液を買うことがご自愛ではない。ハウツーだけが飛び交い、正論や正しさの声が高まるほどに苦しさを感じている人がいる。
本質に触れず、原稿を陳腐で薄っぺらいものにしていたのはわたし自身だ。考えの浅さと想像力の欠如、そして筆力の至らなさを悔い、考え続けている。まだ、答えは出ていない。