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麻雀(マージャン)

最近何かと麻雀が話題だ。
僕の父が大昔に

「麻雀はできたほうが良い。麻雀はかなり仕事に役に立つ」

と言っていた。
この言葉が僕の頭には妙にこびりついていた。

「なるほど、仕事ができるできない、とかより、一緒に遊べる奴のほうが重宝されるよなあ。麻雀いうのはそういう意味で誰とでも仲良く遊べる道具なのかもしれないな」

と思って大学に入った頃からアプリで麻雀をやり続け、ルールを覚えた。

が特に誰からも麻雀に誘われることは無く、かといって麻雀に誘う友人や仲間もおらず。ただ時々スマホで麻雀をするだけの男になり果ててしまった。

大体麻雀をしようと思うと自分の他に3人の人間を集めなければならない。

そりゃあ3人くらいは何等か誘える人はいた時期もある。

でもその誘える3人がすべて麻雀のルールを知っているわけではないし、都合の悪いやつだっているだろう。麻雀をする3人を集めようと思ったら誘える人脈が10人くらい必要だと思う。

10人も誘える人間がいる時期は僕にはなかった。

だから多分、10人くらいは誘える人間がいる、或いは誘ってくれる人が居る場所に自分の身を置く、このどちらかをクリアーして初めて麻雀というのは役に立つのであろう。

しかし僕には10人が居ないし、誰かから麻雀に誘われるということもない。

ファイナルファンタジーとかで、MPがまだ低いのに、上位の呪文を無理して憶えてMPが足りずに結局使えない。という状況と似ている。
ただ人生がファイナルファンタジーと違うところは、自分の能力が数値によって可視化されていない所だ。

何かを手に入れても、自分にそれを扱う能力があるかどうかは判然としないのだ。
さらに言えば、自分の能力の数値が割と見える、という能力を備えている人もいる。
そういう人は正しい努力、計画的な学習、戦略的な成長という奴ができるけど、僕には僕の能力を正しく見積もる能力が備わっていない。
暗中模索。
手にする武器の攻撃力もわからずに、いや、それが武器かどうかもわからずに、敵に、いやもしかしたら味方に振り回しているような状況だ。

敵に目つぶし手りゅう弾を投げているつもりが、味方に牛のくそを投げているようなことだってままあると思うが、自分が味方に牛のくそを投げているという認識を持つことができていないのである。
この文章も面白いと思って書いてはいるが、全く持って面白くない、ということだってあるかもしれない。
「!」や「(笑)」を使った文章をあんまり書いたことがなくて勝手に苦手意識を持っているので、使わずに書き進めているけれど、もしかしたらそういうもののある文章のほうが僕が伝えたいことは伝わるのかもしれない。
何もかもわからないのである。
そして本当にわかっていないかどうかすら、判然としないのだ。
僕が今認識しているこの日本語の羅列。僕の思っている意味と読んでくださっている方の感じる意味と同じかどうか。
辞書にある意味の説明すら分解すれば沢山の意味に別れるが、それ一つ一つの認識が根本から僕のものは間違っていて、僕は自分の思いを伝えられている気になっているけれど、実は全く伝わっていなくて、皆が伝わったふりをし続けてくれているだけなのかもしれない。
そう考えてみると僕は恐ろしくなる。

自分の信用できなさへの信用だけが無闇に募る日が時々あるのだ。

この一連の黒川検事長麻雀物語によって僕はそういう思いを得るタイプの生活を、ここ1週間ほど過ごしたのだった。お願いしますよ黒川さん。

しかしながら、朝日新聞、産経新聞、検察庁、という一流の人々が集って麻雀に興じて交友を深めているというのなら、あながちあの頃の父の言葉は間違っていなかったのかもしれない。
考え方の違う人間たちがマージャン卓を月に何度か囲むことができるのだから、麻雀のゲームとしての強度がうかがい知れる。

くそう、世間を斬っていいねを稼ごうと思ったのに自分に斬りつけてしまったような塩梅になった。

社会派、ならず。残念。

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