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水曜どうでしょう講談とぼく

 水曜どうでしょう講談をこの1年ほどか、やり続けている。毎月1~2本新作を作っては初演。いい演目ができてきているように思う。
今までに何本作ったのだろうか。
ちょっと思いつくままに挙げてみる。
 
『ガラガラ』『ヨーロッパ2夜~3夜』『だるま屋ウィリー事件』
『なんなんやこの料理番組』『サイコロ1』
『西表第四夜~俺はロビンソンや~』『サイコロ3』
『ずんだ』『鈴木宗男の旅番組』『受験生のためのどうでしょう@滋賀』
『どうでしょうと鬱』『東京ウォーカー』『軍団、四国の呪いを受ける』
『懐かしの鎌倉殿』『ジャングルリベンジ』
『水曜どうでしょう講談の発展~玉木よ~』『インキー事件』『闘痔』
『平成二年の二月の八日』『ご存じ、大泉洋、優勝』『ユーコン第一夜』『フィヨルドの悪夢』『家、建てます』『魔神~東北三県~』
『ケツの肉が取れる夢』『なんとかインチキ』『粗大ごみ』
『わかさぎ釣り』『怪奇現象』『洞窟探検と変な夢』

 
…漏れがある気もするがひとまず合計30本。どうでしょう講談を作り始めて1年半ほど。良く作ったものである。
最初に作ったのが『ガラガラ』という演目。
僕が水曜どうでしょうを初めて見たときの感想を語った物語。
これを年季明けの会、藤村嬉野御両がゲストに来てくださって、おふたりの前でやったのが2022年12月。
ここで嬉野さんに

「その初めて見たってのがいいね。初めて見たていで他のもやると良い」

と言っていただき、それぞれの演目、別の回を「初めて見たてい」で作り始めた。
 
最初は「そんな風な無理な作り方ではすぐに作れなくなる」と思っていた。が、この初めて見たてい、という縛りがあるからこそ、どうでしょうの面白さを多角的にとらえることができる。解釈をできる。そうなるとどうでしょうの内容をなぞるだけにならなくなる。
それによりどうでしょう講談の命脈は確実に延びた。

また、自由な展開に持っていける場合もすこぶる多い。
特に『鎌倉殿』や『家、建てます』などの新しい回を題材に採った作品ではかなりスピンが効いた展開になって台本的にかなり満足できるものになってくれる。

思い返すだにありがたいディレクションであったと思う。
ルールが人を自由にし、パワーを与えてくれる、ということは往々にしてあるが、それはどうでしょう講談でも同じことが言える。
 
 毎回のお定まりのくだりや、演目を横断する名フレーズなどのストックもたくさんできている。
講談の原初…真田幸村や忠臣蔵に熱狂した観客に応えるように講談師がお決まりの修羅場読みや名セリフを整理していった過程、に似たものを感じる。

講談が観客によって練られていく、伝統芸能にとってとっても重要な熱を持った現場を僕は体験できているともいえるだろう。
 
 そして何といっても作っていても口演していてもこんなに愉快な講談は無い。作っているときは「こりゃあウケるぞ」と思って作る。
やってみると「やっぱりウケた」となる割合が異常に高いのである。

 これは水曜どうでしょうという番組がはぐくんできた素晴らしいお客様、D陣の言う『プロの客』のなせる技である。

おだててもらって優しくしてもらって褒めてもらって笑ってもらえるものだから、僕も「がっかりされたらやだ」と思って重かった腰をぐいと上げて講談に向き合うことがきるのだ。

期待されることほど、僕を頑張らせるものは無い。
兎角期待をされずに生きてきたので、余計だ。

僕にとってありがたい観客と芸人の関係になってきている。
それまではとにかく僕は観客というものがありがたい反面苦手、はっきりと嫌いであった。
いつだって値踏みしてくる、意味不明な存在だった。公演が終わって喋ったりするのも、数人の信用している人以外とは本当に苦手だった。

公演終わりにお客さんとやたらと懇親会をする芸人に対して
「意味不明だ…ああはなれねえ」
と思ったりしたものである。

しかし水曜どうでしょう講談をやり始め、そのお客さんになってくれた人たちとは喋りたい気持ちになる。不思議なことである。

今となっては客さんとの公演後の懇親会レベルじゃない、飲み会、五時間とか、が楽しくて仕方がない。まったく無内容なんだけどともかく楽しい。
僕に弟子ができて、その飲み会に同道するようなことがあったら、弟子は多分楽しくないんだろうなあ。と思う。
逆説的だが、それくらい楽しい飲み会である。

その楽しさは政治講談に来てくれるお客さんとの関係にも波及している。
僕はなんとお客さんのことを好きになれたのだ。
芸人としてこんなにありがたいことはないのである。
そのほうが嘘がなく振舞える。
来てほしいな、とマジで思えることの気楽さと言ったらない。
こういうことになったのもどうでしょう講談のおかげであろうと思うのだ。
 
 やる気になれずに死んでいく人生だってあったと思う。でも今はどうでしょう講談のおかげ、どうでしょう講談の巻き起こした心境の変化によって何とかやる気をもてている。向上心を持つことをあきらめずにいられている。
もしもこのまま愉快に人生を終えることができたなら、それは講談の世界にとっても痛快事だろうと思う。好きなことをやって楽しく死ねるそんな職業・講談師、ってことになる。
まあそんな簡単にはいかないだろう。きっとこれから苦しみも痛みも待っているだろう。今を後悔する日がもしかしたら来るかもしれない。でもこういう今のような愉快な時間を持つことができた人生になった、ということだけでも、僕の能力からすると大変な大金星
大金星人生にもう既になっているのだ。
 
 9月10日からの水曜どうでしょうキャラバン。去年は恐ろしい気持ち、お客さんに晒されることへの恐怖があったが、今年はそれが無い。いい講談ができるように、台本はもうできているのでともかく稽古だ。
楽しく、のどをつぶすことなく過ごしてきたいものである。兎角のどだけが心配。

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