洗濯

洗濯に行かなければならないがこれに完全に躊躇をしている自分がいる。目をつぶってこの文章を書き始めている。
結局洗濯というのは工程が多すぎる。
僕の心は洗濯へと向かわない。
部屋に散らばっている(散らばっているようではいけない。しかし散らばっている。脱ぎ散らかしに余念がない為)洗濯ものを集め、洗濯機に入れ、回し、暫く待って、洗濯機から取り出し、干す。
実働時間で言えばせいぜい30分そこらかもしれないけれど、各工程の間にちょっと休憩、や洗濯物をまわしている時間、などもあり、結局洗濯を始めてから洗濯を終えるまでに2時間弱ほどかかってしまう。そのことを考えるとどうしても腰が重くなってしまう。
さらに言えば洗濯には何というか不可逆性がある。
洗濯ものを集め、洗濯機に入れるまでは元に戻れる。つまり「今日は洗濯やめとこう」が許されるわけだけれど、洗濯機に洗濯ものを入れて洗剤を投入した時点でもう、干すところまでやらなければいけないことが確定してしまう。
「今日はこの辺で」を許さない、動き出したら止められない、外洋を泳ぐマグロのような性格が洗濯にはあって、それがどうも気分を憂うつにさせる。
これから先の自分の時間に制約が生まれるような、洗濯に拘束されるような、洗濯に人生を支配されているような奇妙な感覚に襲われるのだ。

洗濯をした方が良い、とされる場面は当然服が汚れてきているためその汚れ、そして臭さ。これを解消する必要な場面なわけだけれど、当方お盆休み、しかも外に出るのが奨励されていない夏を生きている。
と、なると、洗濯をしなくてキレイで着用するに値する服が一着も無いとしたら、ただ裸一貫で過ごせばいいだけのことになってしまう。
いつもならば師匠とお会いしたりするわけで。
師匠とお会いするときに、ズボンがマーボー豆腐で汚れているけれど、面倒だから洗濯をせず、ズボンはなし、裸一貫男の気合、でお会いする、ということはできないので、洗濯をして様相と整える。
しかしながら師匠にも会わず、特に外に出かけない、となると綺麗な服を着る理由どころか、服を着る理由がないのだ。

しかしよく考えてみると、僕は何故服を着ているのだろうか。
別に服が着たいわけではないのだ。
でも、ただ、なんとなく、社会において服を着ていない人間は奇人の類に思われる、という浅慮から服を着ることにしているが、本質的に服を着なければならない理由はなんなんだろうか。
例えば露出狂の人。
服を着るのが当然の社会であるから、それからわざとズレて、そのずれに対して被害者が感情を揺らすのが楽しいのだと思っているのだけれど、もし服が無い時は服を着ない、ということになれば、露出狂も減ると思うのだ。だって脱いだって社会とのずれが生まれないから。

だから洗濯ができていない日ぐらい、裸で歩く、ということを許せばよいのだ。
露出狂というのが出現しにくくなる。
そんなことを考えたが、自分が裸で道路を闊歩する勇気は無く。
仕方がないので洗濯をしようと思います。

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