蛍火 - 8月テーマ 「居心地の良い場所」 -
古い記憶。
僕は一人遊びをするのにも、一畳ほどのトイレに篭った。そこが一番安全な場所だと思った。
暴力を暴力とも分からない齢で、己に降りかかる圧倒的な力から逃れる唯一の場所だったのだと思う。
それからというものの、どこか薄暗く、閉塞感すら感じるほどの狭い空間に平和を見出してきた。誰にも干渉されない桃源郷を見つけたと興奮半ばに、ひたすら閉じ籠った。最も僕は、ある程度年を重ねるまでその時の事を忘れていた。見たくない物に無意識で蓋をするよう、その記憶を遥か遠くへ追いやっていたのかもしれない。
その頃の癖がなかなか抜けず、未だに狭い場所に特別な居心地の良さを感じる事がある。広い空間にいざ立ち入るとついつい角の、隅っこの、端の方を何となく見回ってしまう。10代後半には身体の発達に伴い、家の中に適当な狭い空間を見つけられなくなった僕は、廃校になった母校に侵入して、非常階段の一番上に居座って数え切れない時間を重ねた。地上からはとても見えない星空を一生懸命に覗き込んだ。時折、幼少期に夢中で追いかけた光を思い出した。掴めそうで掴めない。疲れ果てて眠るまで、追いかけ続けたあの閃光を。
後年、気付けば対照的に、国という囲いすら飛び越し、最も広い場所、「世界」に住居を移す事に決めた。学生中、海外旅行を繰り返す中で発見したのだが、海外に滞在している時の自分が好きだった。人知れず、積極的に動き回る事が自然と出来たし、何より人と関わる事を楽しめるようになった。この輝きを当たり前にすれば、新しい自分の発見に繋がると確信した上での決断である。
それから、これは最近ようやく言語化出来るようになったのだけど、世界で最もハイコンテクストな文化での生活は僕にとって有毒みたいだ。言わなくても分かる、と、話さなければ分からない、の狭間は、掻きたいところにちょうど手が届かないほどにむず痒い。さらに、「気が利く人間になれ」と強迫観念的な厳しいしつけを父から受けた。結果、鋭い観察眼はそのまま強迫観念へと変わり、若い頃はよく読まなくてもよい部分までを深読みしてしまい、端から見ればとんだ小さい事でも気を揉んだ。
今は、ちょうどハイコンテクストとローコンテクストのハイブリッドな感覚を有していて、どっちにも振れるこの距離感が僕にはとてもちょうど良い。
同じハイコンテクストな文化圏に類する東南アジア圏に3年ほど住んだが、いずれも行間を読むという姿勢が共通言語となったのは発見だった。
それでも彼らは、言いたい事ははっきり言うし、謙遜にもしっかり境界線を引いていた。これは僕にとって第二の故郷にも等しい特別な国となったフィリピンにおいてだが、彼ら冗談を言い合った後で、ハイファイブ(ハイタッチ)をする。渡比したての僕は、何がそんなに面白くてはしゃいでいるのか理解に苦しんだが、単にその時点での英語力と、他文化に対する自身のチューニングが間に合っていなかった事に起因した。1年も経つと、僕も冗談を言ったりしてハイファイブを求められたし、初対面だろうが受け入れてくれるその懐の深さにくつろぎを感じるようになっていった。
卑近な事で言えば、フィリピンでは見ず知らずの人さえもカジュアルに食卓へ誘うことがある。アパートの近くを歩いていた時、よく「Kain na tayo (Let’s eat!) 」と昼食に誘われる事があった。僕が住んでいた地域は、20年前にはよく血が流れたというゲットーで、小道を一本入ればバラック小屋に溢れんばかりの人が住んでいた。つまり、貧困層と呼ばれる人たちですら、他者を思いやる気持ちを忘れずに、惜しみなく施しを与えようとしていた。フィリピン人に、「フィリピン人とはどんな人たち?」と問えば、98%の人が「もてなしの良い人々」と答えるだろう。事実、滞在中には一飯の恩だけでなく、幾度となくタダ酒を振舞ってもらったりした。
僕はフィリピンでの滞在を経て、より深く足るを知った。自分自身の価値を見極め、しっかりと評価出来るようになった。そして、他者に対しては一層受け入れる姿勢で接するようにもなった。完璧などない。ニヒルな見地からではなく、むしろ最善説の立場からそう述べたい。だから、他者の欠点を受け入れる事は、自分を詳しく追求した上で、自分を愛する事と同義だ。僕も不完全だし、あなたも不完全なのだ。むしろそれ故に、僕らは美しいはずなのだけれど、相対的な価値観に呑まれまいと抗う事は本当に大変だから、無理をせず、でも自分を虐める事だけはないように気をつけてほしい。
さて、フィリピンについて書きたい事は多くあるのだが、その中でも僕を大きく癒したのは彼らのホスピタリティと、対人距離の近さではないだろうか、と現時点での仮説で筆を走らせたい。
上述した通りにはなるが、彼らは自分たちのホスピタリティに自信を持っている。つまり、おもてなしの心や、他者に対する施しの文化の事だ。僕が何度も感嘆したのは、「そんなにあっさりと見ず知らずの人(僕)を家に上げちゃうの?」といった経験だ。
街外れにあるケーキ屋を訪ねた時の事、入り口が閉まっていたのでインターホンを鳴らすと、中から店の主らしき女性がゆっくりと顔を覗かせる。美味しそうなケーキをFacebookで拝見したので伺ってみたんです、と伝えると、今日は店を開けてないからとりあえず家に上がってお茶でもいかが、と言われる。日本生まれ日本育ち、26年間を閉鎖的な村社会で育ってきた僕にとっては、もうこの時点でとんだファンタジーだった。
「見ず知らずの人を家へ上げては駄目!!」誰だってこう言われて育ったのだ。
僕自身、易々と他人を家に上げたことなどないし、まさか自分がこうやって見ず知らずの他人となって人様のお家へ上がる事になろうとも思ってもみなかった。
何故だか快く招かれた僕の方がおっかなびっくり玄関を上がり、広々とした居間へ通され、いくつか並んだソファの真ん中へ座らされた。その女性がお茶を汲みにキッチンの方へ消えていった時、急に首の裏あたりを気まずさがチクリと刺した。
家の外観からして、中級以上の家庭である事は間違いなかった。内装もモダンな西洋式となっていて、特段東京に建つ家々とも遜色がない。額に入れて飾ってある写真から、パートナーは白人男性であるらしい事が分かった。
彼女が良い香りを漂わせながら戻ってきて、「お店は休みだけど、お菓子作りは趣味みたいなものだから今日もいくつか焼いたの。良ければ食べてみてください。お代わりもありますよ」と言い、淹れたての紅茶とアルミホイルに包まれた洋菓子を小さなトレイに乗せ、差し出してくれた。ブランデーケーキらしく、芳醇かつ香ばしい匂いが食欲を刺激した。とりあえず一口のつもりがあまりに絶品で、あっという間に食べてしまい、彼女が見計らったようなタイミングでまた一切れを僕のトレイに乗せてくれた。
食べるのに夢中で、自己紹介も疎かになっていたことを思い出し、急いで怪しい者じゃない事を伝える。バギオで何をやっているのか、どこに住んでいるのかを詳細まで説明した。
すると彼女は、全面的に僕の話を信用してくれたらしく、今度は彼女自身について話し始めた。彼女は1人目の夫を失くし、しばらく未亡人となっていた事。その後、今のパートナーと運命的な出会いの末、結ばれた事。子供達は大学生で理系の専攻である事等。極めて個人的な内容を、彼女は休む間もなく話し続け、その途中途中で、彼女のご子息やパートナーとも挨拶を済ませたりした。部屋の中が暗くなっていることに気づき、時計に目をやるとあっという間に2時間半が経過していた。その後、友人との約束が控えていたため、そろそろ失礼しなければならない旨を伝えると、少し残念そうな顔をして、残っていたケーキをお土産に持って行きなさいと言った。僕は十分過ぎる施しを受けたので、これ以上は受け取れませんと言うと、彼女は電話番号の書いた紙を渡し、いつでもまた連絡をして遊びに来てねと言った。
家を出て、帰りのジプニーに乗るために大通りへ向かっていると、自分が久しく感じていなかった類の多幸感に包まれている事に気付いた。
居間へ通された時に感じた居心地の悪さはすっかり溶かされ、また遊びに来たいとすら思っている自分が新鮮でもあった。何にせよ、見知らぬ外国人である僕をあっけらかんと招き入れ、まるで親戚の1人であるかのように扱ってもらえた事が、単身で異国の地に暮らす僕にはぐっと沁みた。
また、バギオから3時間ほど車で走らせたところにあるビーチへ出掛けた際にも同様の経験をした事がある。そこには、地元のサーファーやアーティスト達が集まるゲストハウスがあり、バギオにあるアートギャラリーのオーナーが運営しているらしく、以前から訪れようと思っていた。
特に宿の予約もせず、最悪の場合は砂浜で寝れば良いと気楽に構えて家を出た。
いざ、目的地に到着すると、屋外に設置された簡易的なニッパハウスでサーファーらしき成り立ちの男たちが酒盛りをしているのが見えた。オーナーを見かけたので声を掛けると、例の「Kain na tayo!」で始まり、二言目には「Tagay!(乾盃!)」と来て、フィリピン産のジンをショットで即座に渡される。余談だが、フィリピン人は個人あたりのジンの消費量が世界一らしい。最も手軽かつ安く手に入るのがこのジンなのだ。最早、味もへったくれもないのだが、とにかく簡単に酔える事が人気の理由だろう。陽気な人たちに囲まれ、僕もヘラヘラしている内、あっという間に酔っ払った。
浜風に当たりながら少し休んでいると、オーナーから、空きの部屋があるからそこへ泊まっていけと言われた。野暮ではあるが、念の為に「いくらですか?」と聞くと、首を横に振りながら自分の席へ戻って行った。
この場所には計4回ほど訪れたが、僕からの支払いを受け取ってくれたのは1度だけだったはずだ。それ以外は空き部屋を使わせてくれたり、キャンプ用のテントを貸し与えられ、どこにでも張っていいから泊まっていけといった具合だった。
オーナーは、生涯独身の誓いを立てた渋い男だ。生涯独身の理由は、結婚や恋愛を信じないという事らしく、酒盛りの場に女性がいるといつも隣に座って口説こうとした。ただ、常連から聞いた話では、彼にも以前は家族があったらしく、子供もいるとかいないとか。ゴシップ文化が盛んなフィリピンでは、真実を突き詰めるのがとにかく難儀なのだが、それ以上の詳しい話は聞かない事にした。とにかく、彼は自分の仲間たちやアーティスト達をいつも家族のように迎え入れ、彼が持っているものを躊躇なく他人に譲り渡した。そんな彼を特に慕う者たちから彼は「ボス」と呼ばれていて、どこかで聞いたおとぎ話のようだけれど、ボスと特に近しい13人のメンバーは、体のいずれかに1〜13までのそれぞれ割り振られた番号のタトゥーを掘って、ボスへの敬意と愛情を示していた。
常連のメンバーは実に様々だった。サーファー、会社員、プログラマー、ミュージシャン、アーティスト、ペインター、弁護士などがいた。その場に集まっている者に境界線はなく、ただその時間を共に楽しむ為に集い、朝日が昇る頃にようやく1人ずつ床についた。昼過ぎに起きればまた誰かが酒盛りを始め、時には誰かがギターを持って歌い出し、そのうち自然と大合唱に変わっていった。反対に疲れ果てた時には、何をするでもなくカウチに寝そべったりしながらただただ西日を眺め、映える夕陽に吸い込まれていくのだった。
その他、フィリピンで見た光景の中でも忘れがたい記憶の1つが、2018年から2019年に移り変わる年越しである。
当時、僕は家賃が月々8000円程度のアパートに住んでいた。ひょんな巡り合わせで紹介されたそのアパートは、不動産賃貸業の認可を受けていない建物で、元々大工であったオーナーの父(以下、タタイ)が基盤から建設したらしい。水道が朝の6時から11時までしか使えないなど致命的な難がいくつかあったけれど、屋上階に行けば当たりを一望しつつ一服が出来るという点が気に入り、ここに住むことを決めた。
オーナーのパートナーは、日本の漁船でコックをしており、1年の半分を船で働き、残りの半分はフィリピンに戻って家族と過ごすといった生活を14年間も続けていた。オーナーとパートナーとの出会いは船の中で、意気投合した後にすぐ身を固めたという。
そんな背景もあって、日本や日本人に対する理解があった。フィリピンでは誰かの誕生日があれば盛大に祝うのだが、決まって僕も誘ってくれたし、度々お裾分けを頂いたりした。
フィリピン人にとって一大行事と言えば、クリスマス〜年越しで、この期間は町中がお祭りムードになる。時期が近くなると話題はこの話ばかりで、遠くの街から出稼ぎに来ている者たちは、日に日に近づく帰省に胸を膨らませていた。
年越し当日、昼過ぎには宴会が始まった。
普及率が90%を超えているんじゃないかというほど、どの家庭もカラオケマシンを持っているのだが、この日もエコーが掛かった誰かの歌声が僕の部屋の網戸を揺らした。
僕もいつも世話になっているお返しとして、酒を幾ばくか用意した上で参加した。家族団欒と同じ方を向いて年越しを楽しむこの一家を見ているうち、僕も昔は家族揃ってテレビの前に寝転がり、紅白を見ていた事や、父方の実家に帰省した際の一面銀色に輝く雪景色なんかを思い出した。
まだ年越しまで数時間あるというのにすっかり酩酊状態になったタタイを、若い大工たちが囲い、笑っている。タタイはアル中で、夜中には決まって酩酊していたし、酩酊すると最早誰にも理解出来ない言葉をぶつぶつと繰り返すだけになった。
1月は乾季なのと、バギオの標高1500mという立地上、この時はパーカーの上にジャケットが必要なほど冷えた。ブルっと背筋が震え、催したのでお手洗いへと席を立った。
タタイの側を通り過ぎようとした時、彼の大きくてしわくちゃな手が僕の手を取って彼のおでこにそっと当てがった。
これはブレスと呼ばれる彼ら独自の礼儀作法なのだが、目上の方を敬う為にする行為であって、その逆は基本的にあり得ない。
僕は呆気にとられたのも束の間、すかさずタタイの手を取り返して僕のおでこに当てた。
タタイは僕から何かを感じ取ったのか、戯けた様子で「It’s OK~ ! It’s Alright~!」と繰り返した。終いに、彼は僕の事を息子と呼び、“I love you” と言って、微笑んだ。僕はしきりに感謝の気持ちを伝える他なかった。体の芯の方にじんわりと熱が灯ったのを感じた。
年越しの瞬間が近づくにつれ、見るからにそわそわし始めた子供たち。
そこかしこでカウントダウンが聞こえ始める。
3.....2......1......!!!
バーナム・パークの方から一斉に花火が上がった。
それに加えて、街中から家庭用のロケット花火がピュンピュンと音を立てて飛び跳ねる。
オーナー一家の顔を覗き込むと、まん丸に開いた目に花火の煌めきが反射している。
全員、口元が緩んでいるように見えた。
ポンヌフ橋の上で踊っているんじゃないか、と思うほど美しい光景だった。
花火は2分間ほど続き、年越し用の音響が街の隅々までを駆け抜けていった。
遠くも近くもない距離からギターの音が聞こえる。続けてジャンベが鳴った。
とても見えやしないのだが、細めた目を音の先へ向ける。誰かが歌を乗せ始めた。
濃霧が山から降りてきて、終幕を知らせた。
ちょっとずつ静けさが戻り始めた。
僕はレッドホースの残りを飲み干して、そこら中で点滅する蛍火が消えないようしばらく見守っていた。
Written by 成
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