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自衛官から慶応生になって人生変えたときの物話─第1話・入隊─


挑戦したときの記憶を、人は一生忘れない。そこには情熱や勇気、さまざまな葛藤がつまっているからだ。入学式当日、私は慶応義塾大学のいちょう並木を歩きながら、当時のことを思い出していた。

──泥だらけの単語カード、汗でよれた文法書、靴墨のついた英単語帳。ときには腕立て伏せをしながら、ときにはトイレの常夜灯の下で、それらを開いた日々のこと。そして何より、活路を見出してくれた多くの仲間や上司に巡り会えたこと。

私は、どうしてここにいるのだろう。どうやってここまでたどり着いたのだろう。

入学式からの帰り道、ふと辺りを見渡すと、桜の花びらが風に吹かれて舞っていた。


過酷な教育隊生活の始まり

大学入学の2年前、私は航空自衛隊に入隊した。それは私にとって希望の進路であった。着隊の日、地元の新潟から埼玉の熊谷まで、新幹線で向かう。トンネルを抜けると、晴れ晴れとした空が続いていた。

熊谷駅で降りると、そこから所属の基地までは引率の自衛官が連れて行ってくれた。

航空自衛隊熊谷基地──

それは、自衛隊に入隊した者がすべからく所属しなければならない「あの」部隊を有する基地だった。

正門までたどり着くと、複雑な感情が一気に押し寄せた。そこに見えるのは、小銃を持って警備にあたる自衛官や基地に張り巡らされる鉄格子だ。それらを目の前にして、新生活への期待と同時に厳しい生活への不安を抱かない者はいないだろう。

「入隊式は明日ですので、手続きを済ませたあとは隊舎でゆっくりしていてください」

基地に入ると、誘導係と思われる若い自衛官が、新隊員一人ひとりを隊舎へと案内していた。隊舎とは、基地内で生活する自衛官の宿舎のことだ。彼はすべての入隊者に対して笑顔で接していた。予想とは裏腹に懇切丁寧な誘導係の自衛官を見て、私は意表を突かれた。

自衛隊での生活は意外と楽なのではないか──。

そう思われるほど、物腰柔らかな自衛官だ。噂で聞く自衛隊の印象とは異なっていた。私はつかの間ではあったが、安堵の気持ちを覚えていた。今にして思えば、このときを最後にして、その後熊谷基地を出るまでの数ヶ月間、私の心が落ち着くことはなかった。

隊舎に着くと、すでに我々新隊員の部屋割は決められていた。部屋といっても、一人に1つの部屋が与えられるわけではなく、新隊員の間は5人か6人で一部屋を使うことになっていた。私は廊下に張り出された部屋割表を見て、指定された部屋へと向かう。すると、部屋にはすでに着隊していた人間が数人いて、荷物の整理をしていた。

「よろしくお願いします」

私はか細い声で言った。彼らが私の方を一斉に向く。人相が悪く、あからさまに睨んでいるような顔つきの人もいた。私はもっとハキハキとしゃべればよかったと後悔した。

「おう、よろしく」

最も人相の悪い男が言った。その他の人間もじっとこっちを見ている。彼らとともに過ごす期間、実に4ヶ月弱──。私は、一刻も早くこの熊谷での生活が終わってほしい、心のなかでただただそう願っていた。こうして、着隊当日は、不安と緊張に苛まれながら終わった。

翌日──。それらの感情には、新たに恐怖が加わることになった。入隊式が終わって数分も経たないうちのことである。

「航空自衛隊入隊式」

式の行われる基地の体育館の正面には、でかでかとした立て看板が掲げられている。ただそれは、単なる就職祝いの式典ではなく、自衛隊の世界に放り出されることを意味した通過儀礼のことであった。

「お前らが10秒遅刻したら、そのあいだに戦闘機は何キロ進むと思う?」

自衛隊に入隊したばかりの人間が最初に怒られることは、たいてい、時間を守らないことによるものだ。私が入隊したときも、例外ではなかった。

たった10秒──。

それが「入隊式」という新隊員にとって晴れの舞台であっても、遅刻は遅刻だ。入隊式が終わったあと、基地には教官の怒号がこだました。

「お前らの遅れのせいで作戦や救助が失敗し、人が死ぬということを自覚しろ! 全員、腕立て伏せ、用意──」

こうして、私の自衛隊生活は始まった。  

我々新隊員が最初に入隊する部隊のことを、自衛隊では教育隊という。教育隊は、新隊員を一人前の自衛官にするため、自衛隊の基礎を徹底的に教え込む部隊だ。教育隊は、日本で最も過酷な「研修機関」であるといっても言いすぎではない。

その指導内容は、体力訓練はもとより、敬礼や回れ右等の所作を習得する「教練」や地上戦闘訓練、実弾射撃、銃剣道など多岐に渡り、期間は4ヶ月弱に及ぶ。

航空自衛隊において、その教育隊を有している基地のひとつが熊谷基地だった。熊谷基地のある埼玉県熊谷市は、真夏の最高気温が40度を越す日本で最も暑いまちのひとつだ。訓練内容はさることながら、隊員の根性を叩き直すには十分すぎる環境だった。

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写真の出典:防衛省航空自衛隊防府南基地HP
https://www.mod.go.jp/asdf/hofuminami/kukyo_nagare.html


自衛隊の洗礼

遅刻による連帯責任の腕立て伏せを終え、私の腕は溜まった乳酸でいうことをきかなかった。私はなんとか立ち上がると、思った。

──どうやら、とんでもないところに来てしまったらしい。

昨日、着隊したときに誘導係があれだけ親切だったのは、入隊式までに我々が自衛隊に嫌気をさして、実家に帰ってしまわないためであろう。入隊式までは「お客様」だったにすぎないのだ。

その後も入隊式当日は、秒単位で進むスケジュールに忙殺され、気づいたら日が暮れていた。だが、課業時間が終わったあとでさえ、ひと息つく余裕はなかった。自室に戻ったあとも、気を抜くことはできないのが教育隊だ。

教育隊では、「隊舎」をベースに新隊員はみな共同生活をする。各居室において、個人に与えられる家具はベッドと高さ2mほどのロッカーのみ。トイレや洗面台、洗濯機など、それ以外のものは、すべて共有物である。

一つの隊舎には、130人ほどが居住している。教育期間中は24時間、彼らと寝食を共にすることになる。プライベートといえる空間は、トイレの個室以外、存在しない。常在戦場とは、まさにこのことだった。

そして、息つく暇もない入隊式後の課業をこなし隊舎に戻った我々は、すぐさま部屋の異変に気づくことになる。朝には整理整頓して出ていったはずのベッド周りやロッカーが、無惨にも荒らされているのだ。我々は愕然とした。

床に散らばった毛布や壁と垂直に「立てかけられた」ベッドのマットレス──。下駄箱からはすべての靴が放り出され、ロッカーの鍵を締め忘れていた隊員の私物は、すべて部屋中に散乱していた。これは、自衛隊で「台風」と呼ばれている洗礼だった。

自衛官たるもの、いつ何時さえ、身の回りはすべからく整理整頓しなければならない。モノを探すことに費やす時間の浪費は、即ち作戦や救助の失敗につながる。また、もし万が一にも殉職したとき、身の回りの整理がされていなければ、残された部隊に迷惑がかかる──。 

そうしたことを新人に解らせるため、教育隊では、教官たちによる定期的な部屋荒らしの儀式が行われる。それが「台風」だった。我々がこの「台風」から身を守る唯一の方法は、身の回りを徹底的に整理整頓することだけだった。


仲間との共同生活

私は自室の同居人とともに、「台風」の被害によって荒れた部屋の回復につとめていた。

「こんな日々が3ヶ月以上も続くのか……」

ボソッと、そのうちの一人がそんなことをつぶやいたような気がした。私は何も発しなかったが、心のなかでひどく共感していた。

連帯責任や「台風」、皆無なプライベート。
それに加え、これから始まる過酷な訓練生活。
24時間、一挙手一投足の全てに責任がのしかかる。

つい数日前まで、私は鉄柵の向こうで自由を謳歌していたのだった。そういう生活を送っていた日々が、急にありがたく思えてきた。入隊初日にして気が滅入っていたのは、確かだった。

「あーー、初日から本当にきついな」

昨日、険しい表情で私を見てきた強面の彼がそう言った。そう、彼も含めてみな大変なのだ。私だけが大変なわけではない。全員が平等に連帯責任を食らっていたし、「台風」の被害に遭っている。辛いのはみな一緒だ。

いやむしろ、私はまだマシなほうだった。ロッカーの鍵を締め忘れていた同期は、部屋中に散らかった自分のパンツを一生懸命かき集めていた。

「もうパンツ落ちてないよな?  もし見つけたら教えてくれよ」

かき集めたパンツをロッカーに戻しながら彼が言うと、部屋は笑いと和やかさに包まれた。過酷な生活のなかに一寸の光がさした気がした。

だが、このときの私はまだ、人生の持つ可能性には気づいていなかった。まだ何も、始めていなかったのだ。

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【note創作大賞2022一次選考通過作品】人生を変えた自衛隊生活と受験勉強の二刀流──。限られた時間、過酷な生活、さまざまな葛藤のなかで…

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