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短篇【夏雨で会う】 田村保乃


今日は雨が降るらしい。


昨日の夜から気象の焦燥が垣間見える。ニュースキャスターは夏を感じさせない服装で季節の問いを答えてくれない。

昨日の晴れ晴れとした世界が嘘のように、低気圧と高気圧のお見合いで世界が変わる。

布団はまだ厚い方が良い。


今日もリクルートスーツに慣れない革靴、普段持たない鞄に体を強く絞めるネクタイでこの就職の荒波を乗り切るつもりでいた。


朝のけたたましい空は鉛色。気を焦った朝起きは空の機嫌を見ることが出来る楽しい時間だった。僕は小慣れた朝食の準備と用意していた服に着替えて、流れていく空を見ている。

珈琲なんて僕は飲まない。父が仕事前に当たり前のように飲んでいたのは、格好付けるためだったと思っている。もし大人としての証明を朝一杯の珈琲で済ませようとしていたなら、この世は単純で分かりやすい。

朝食のコーンフレークには牛乳をかけない。あのぐちゃぐちゃした感じが、鳥肌が立つぐらい気分の悪い食べ物に変わる。必ず単体ずつで胃に入れる。

朝の食事は胃に入れるより落とし込むと言ったほうが正しいのかもしれないが、今の空を見ていると“落とす”と言う言葉を使うと縁起が悪い。


とりあえず流し込むだけだ。

いつも食事をする机の目の前には、大きな窓がある。都会から少しだけ離れた景色と、その都会への憧れを如実に出した景色が混ざった不愉快な世界は、空の色で険悪にもなる。

「今日から台風なのか」


大学生になって覚束ない日の数え方で、いつも億劫になる。僕は空と気分と時々緑茶で誤魔化すが、天気は地上に雨を“落とす”。

また使った______


歯磨きの音はテンポよくやりたい。スムーズで、ズレのないリズムが生活の拍子を作ってくれる。開放的な窓を見ると、既ににわかでは無くなっていた。

か弱い世界の号泣から、僕は準備に没頭していた。昨日考えた面接での問答。メモに残しておいたのが功を奏したのか、今では1文字も思い出せない。机の上に置いて正解だった。


やっとこさ玄関に辿り着いた時には、外の音が聞こえるぐらい落ち込んでいた。喧騒が慌ただしくて辛く傘も持ちたくない。


靴下は二重にした。

僕はとりあえず駅まで歩いた。電車を考慮して走っても良かったが、折角のスーツが濡れるのは、携帯の液晶にヒビが入るのと同じくぐらい嫌な気分。水たまりを避けながら、世界を交わす。


いつもいる子供やお年寄りは、駅までの道程で見てない。世界に絶望でもしたのかと勘違いするほど、今の僕は卑屈で憂鬱だ。

6月でも傘を持つ左手は冷える。その傍ら右手で好きな音楽を選ぶ癖はいつでもやめられると確信しているから安心して欲しい。

視線は携帯と世界を交互に。真新しい変化など写されているわけでも無く、アプリゲームの習慣が抜けない。ただいらない癖とも思わない。

改札までは階段を使う。格好付けたい僕には一歩ずつの足音が雨との相乗効果で凛々しく楽しい。すぐ飽きて、エスカレーターに媚びりたくなるのが本音でもある。


ICカードには残高はあまり入れない。浪費する癖は治らなかった。子供の頃、お小遣いを初日で使うRTAで優勝した時から、諦めていた。

なけなしの濡れた千円を券売機の中に入っていくのが、悲しみでやり切れなかった。

賭博も趣味も何もしていない。生きているだけでお金がかかる。でもそんなこと考えているから、絶望するんだ。残念だが、僕はただ生きる予定。


改札に入って、ここでやっとメールを確認する。現代大学生において”メール”という格式ばったツールに何も愛着も湧かない。一番上に来ている一通のメールには


【本日は、台風による混雑を避けるため中止させて頂きます】


「………アイスでも買って帰ろ」



結局絶え間ない雨に無くなった面接の悲しさなんて、1ミリも感じなかった。駅員に説明をして、もと来た道を戻る。


本日の予定は無事彼方へと消え失せて、僕は家の近くのコンビニまでまた歩いていく。たまにタクシーを使う大学生がいるのを見かけるが、大人と同じことをして、大人になったふりをしてるようにしか見えない。

「じゃあ僕の父も事実上子供だよな」

ここの24時間営業のコンビニは、いつも優しそうな店員しかいない。僕は運がいいみたいだ。ただどうせなら台風が消えるぐらいの運も欲しかったものだ。

傘から垂れてくる雨粒が肩に落ちる。冷たくて、暖かい世界から僕は逃げるようにコンビニに入る。犬のように傘を震えさせて、場所を記憶して傘を置く。この土地なら傘は、勝手に盗んでいいものという認識になっているらしいので、当初から僕は愛着すらなかった。


宣伝の為の店内音楽は殆どの人がしているイヤフォンで無碍にされて、僕は少しでも役に立ちたくて携帯を隠す。今日使う予定だった電車賃をここで使うつもりで、財布も出すつもりもない。


[108円になります]

大金の要求に苛立ちながら、僕は敢えて袋に入れてもらう抵抗をしてICカードをレジに近付ける。するとICカードを置いた場所が間違っていたのか、店員に注意された。再度指定された場所をカードを置いたらレシートを渡された。

赤っ恥をかいたではないか、名誉毀損だ


そんなこと言える度胸は当然ない。だから今もこうやって虚しく傘を持とうとする。


「………傘がない」


やっぱり軽犯罪件数国内最有力地域。これだから世界は非情で悪なんだ。因みに僕の傘は透明で、誰でも持っているようなものだった。

「そりゃ誰か間違えるか……新しいの買うか」

まだお金はある、気は乗らないが

『傘無いんですか?』

知らない、女性だ


「………そうなんですよ、ここに置いといたんですけどね、まあこの街でよくあることですよ」

キャリーケースが雨に照らされて、朝の光も乱反射する。僕は目の前にいるキャリアウーマンに話しかけられて、普通に嬉しかった。

『因みに行き先はどちらで?』

「………この先の〇〇というマンションです」

『あ、一緒だ』


いや、絶対嘘だ。そんな偶然あるはずがない。よく考えてみろ、何処の世界に見知らぬ女性に話しかけられたら住んでるマンションが同じという偶然があるんだ。それがあり得る世界なら僕はとうの昔に恐竜が絶滅した確実な原因を教わっている。


『良かったら傘入ります?そこまで大きくはないですけど』

この世界には節操がなかった。恐らく雨で薄れ落ちたのだろう。ワイパーでさえ消せなかった雨の死に痕が僕の表情からは見えた。

ここは紳士で乗り切ろう。単純なことで狼狽する学生と思われてしまっては、今後の人生で大事な城壁を色仕掛けによって蹴落とされてしまう。

「いいんですか?」

『はい、同じ場所なら』

彼女の右手から傘を受け取った。想像では小さい折り畳みを可愛くしてたが、骨太な大きい傘に苦笑いが隠せない。

『あ、少しの間だけアイス食べたいんで、キャリーケース持ってくれます?』

この子は農家出身か、純朴で何も悪意のない言い方に飛び跳ねて大気圏行くかもしれない。だがそんな戯言は決して他人に言わないと心に決めている。今度はお得意の笑顔で乗り切ろう。

「大丈夫ですよ」


僕の右手には傘、左手にはキャリーケース。
宣言通り癖はなくなった。これで僕は信頼できる人間と証明できたわけだ。

彼女が買った新作の珈琲のアイスが雨の飛沫を跳ね除けて、綺麗に仁王立ちしている。頬張る姿を見て、珈琲は大人の証明材料と、脳で理解する。これは流石に父には申し訳ないと思っている。音速の撤回でここは見逃してほしい。


「雨当たりません?」

『大丈夫ですよ、思ったより二人分入るみたい』

「そうですね、一人でなら寧ろ邪魔なぐらいだ」


『今日は仕事ですか?』

「就活です。まあ台風でなくなったんですけどね」

『それは大変ですね、どこ受けるんですか?』


本当に台風なのか

忙しない世間の天気が朧気に見えて、彼女との会話は楽しく弾んだ。聞いたら同い年らしい。
上京してきたという彼女は今日から住むのだと。そんな会話から見えた事実は、この時には薄らとしか覚えていない。だって片方には美人がいるんだ。狼狽して何が悪い。

本当に数分の会話で、マンションに到着。
オートロックで仲良く入ってエレベーターに乗る。意外とエレベーターの部屋が広かったのが、本当に空気の読めない理屈だ。どうせなら二人で異世界転生でもして、都合の良い環境を作りたかった。


「あ、アイス食べ忘れてた」

『買ってたんですね、今度奢りますよ』

「貴方のせいではないですよ。勝手に買った僕が悪いので」

二人で同じ階のボタンを押して、格好付けて良い気分だった。彼女の口調から若干の方言が見えて、僕だけの発見として記憶に保存出来そうだ。こんな人間で育ててくれた親に感謝したい。


今更何言ってるんだとなるかもしれないがな

『同じ階とは運命ですね』

「流石に引くぐらいの運命ですけどね」

『まあこの辺だとここが一番最良物件だったし、もしかしたら必然かも……』

彼女の思わせぶりな発言よ、ありがとう。今日から僕はその小さい色仕掛けをおかずに白ごはんを食べていく。そしてそれを糧に生きていく。


僕の些細な喜びは枝分かれした通路で途切れた。雨はまだ降って、少しだけ水が跳ねている。


「じゃありがとうございました」

『いえいえ、私も急に話しかけてすみません」

「何かお礼でもしたいのですが」

『なら今度部屋行かせて下さい。友達もいないのでせっかくなら二人で晩御飯でも』

彼女が部屋に入るところを見送って、今日の出来事は幕を閉じた。

些細な約束は雨の音で編曲される。軽快なリズムで僕らの会話は弾み、見ている彼女の笑顔は多分、隔たりなく見える素敵だったのだろう。僕は勘違いと嬉しさで家に入ろうとした。


手には、
「……てかキャリーケース持ったままじゃん」
まだ残っていた。

お互い救いようがない阿呆だ。でも次会うのは、ほんの数分後だった。

僕は彼女の部屋のチャイムを鳴らす。

予定は合わない、
運命の点呼も揃わない、
誰も見ていない。


それは運命に片付けられない雨


今日は止まなくていい、初めて想った


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