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期待はずれの『ミッドサマー』

まずはじめに、「期待外れの」などと、まるで品のない広告文のようなタイトルをつけたことをお詫び申し上げたい。『ミッドサマー』は、噂通りの、美しく、神秘的な映画であった。

私が「期待外れ」だと感じたのは、その完成度にではない。裏切られたのは”奇妙なホラー映画であることを期待していた私”だ。衝撃的な表現はあれど、怖さは感じなかった。むしろ、ホラー映画と評されていることが怖いといった方が良いかもしれない。

私は、この映画の物語こそ、私たち人間のあるべき姿を描いている思うのだ。これはホラーという技法を使った人間の物語だ。

Circle of Life

(※ここからはネタバレを含むので、まだ映画を見られていない方は、自身の判断で読み進めていってほしい。)

ホルガと呼ばれる村の祭典を描いた『ミッドサマー』。この映画の重要なテーマの1つが生と死である(と私は解釈している)。主人公の家族の死、精神の死、生け贄としての死、そして死を通して再考される生を描いた物語だ。

映画を見た人ならわかると思うが、まず最も衝撃を受けるのが、村の年長者が崖から飛び降りるシーンだろう。高齢とはいえ、まだ健康で十分余命があろうと思われる男女は、崖から飛び降り、自らの生を終える。顔面は潰れ、脚は折れ曲り、村人が振り下ろしたハンマーにより叩き潰されたその死体は、私たちに吐き気さえ覚えさせる。

その姿をただ見つめる村人は、狂人とも言えようが、祭典の主催者は騒ぐ学生らにこう説明する。

「これは私たちにとって喜びなのだ。老いて醜く死ぬよりも、新しく生まれる命に、自らの命を引き継ぐのだ。私の順が回ってくるとき、私は喜んでそれを受け入れるだろう」と。

この村人にとって命は循環、そして転生するものなのだ。そしてこの思想は東洋人の私にとって、とても自然なものである。

仏教が「Reincarnation (転生)」と説き、あらゆるものの生や徳が次の生に受け継がれると語った教えは、意識はしなくとも、私が「死後の世界」を想像するとき、その基盤となっているの。

自らが別の形をまとって、また新たな生を受けること、この信仰は「死」に対する恐怖を(映画のように喜びとまでは行かなくとも)ほんの少しだけ、緩和してくれる。

日本古来の風習であった「姥捨」という行為は、まさにこのシーンの実例のように思う。風習が生まれた背景は違えど、自らの引き際を知ること、自らの終わりを持って新たな始まりがあると信じることは、私たちの生活の一部であり、自然な思想なのだ。


Reconstruction of Family

この映画のもう一つの主題は「家族」である。

主人公ダニーは妹と両親の4人家族であり、付き合って数年になる彼氏を持つ。旅行の直前、バイポーラーの妹が両親を道ずれにし、自殺したことを知る。家族を失い、傷心のダニーが、彼とその友達に便乗し訪れたのがホラガである。

赤ん坊を抱く娘がダニーに説明する。「この子の母親は今ここにはいない。この村ではみんなで子供を育てる」と。

ダニーらを招待した友人が問う。「君は本当に彼に支えられているのか?」と。

そして村人は、あたかも同じ心を共有しているかのように、共鳴する。誰かが痛みを感じた時には、皆で痛みを表現し、泣く時にはみんなで同じように泣く。

その姿はまるで、これが真の家族であると主張するかのようだ。


映画の後半、ダニーはこの年のメイクイーンになる。お祝いの食事会で女がダニーにかけた言葉は、「これであなたはもう私たちの一員ね」だ。

ここには「本当の家族とは何か」という問いが投げかけられていると思うのだ。血が繋がっているのが家族なのか、交際相手を家族と呼ぶのか、それとも、全てを共にする共同体を家族と呼ぶのか。家族を失い、自らの彼氏に生贄としての死を命じたダニーは、その答えに答えたように思う。

「そう、私の家族は、ここにある」と。


Being One with the Nature

そしてこの基盤となっているもう一つのメッセージ。それが自然との融合だと思う。

マッシュルームや怪しい飲み物でハイになった主人公ダニーは、自らの体が植物化するのを体験する。手の上に芝生が生え、脚が藁に変わるのだ。薬物による幻想として描かれているが、これは映画全体を通して描かれている、自然と一つになることを象徴しているように思える。

植物と一体化する自らの体を見てダニーは怖がる。息を荒くして焦りを見せる。

でも、最後の場面、炎に包まれ死にゆく生贄を見つめるダニーは、全身を花に包まれ、そして笑っていた。

この瞬間はダニーの受諾の瞬間であったと思う。

自然と一つになること。

そして、死んでいた自らの精神の転生を受け入れることの。


期待外れの私の解釈

ここまで誠に勝手な解釈をしてみたが、誤りはあろうともこれは私の本心である。ここまで読んで「な〜んだ、期待外れ」と思った方には申し訳ないが、私はこの村の思想や習慣は全くもって合理的だと思うのだ。(もちろん全てを肯定するわけではない。何も告げずに友人を連れてきた兄弟はどうかと思う)

いかにも合理的に回り続けている現代の世の中は、この世界よりも本当に意味の通るものだろうか?老人を施設に押し込み、延命治療を強制する私たちの国家は本当にこの村よりも”ホラー”ではないだろうか。

表層の表現のみをとれば、グロテスクなホラー作品である本作は、その奥にになんとも言えない美しさと人間の生命の本質を、私に見せてくれた。ここに述べたことが、全く作者の意図したことでないとすると、私はこれを私自身の映画として二次創作(妄想)したことにしよう。そしてきっとN次創作し続ける。それほどまでに、この映画は、深く、美しい。

Thanks, Ari.


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