
<<2010年代映画ベスト50>>
50.アッバス・キアロスタミ
『ライク・サムワン・イン・ラブ』(2012)
空間と時間をみることを教えてくれる映画。特にラストシーンが忘れがたい幸福な映画体験。
49.トラン・アン・ユン
『ノルウェイの森』(2010)
ーー「たぶん我々はあのとき会うべくして会ったのだし、もしあのとき会っていなかったとしても、我々はべつのどこかで会っていただろう。とくに根拠があるわけではないのだが、僕はそんな気がした」
トラン・アン・ユンが監督したことによる無国籍さがこの映画を成立させる。彼は観客を信じる。だから観客もまたこの映画を信じられる。
48.アレクサンダー・テレーセ・キーニング
『ガールズロスト』(2015)
性別を変える魔法の花に出逢う少女たち。ファンタジー的な比喩を使いながら、ジェンダーの問題が真摯に描かれている。 トランスジェンダーを扱う映画のなかでもきわめて重要作。
47.アランテ・カヴァンテ
『Sangailes vasara(原題)』(2015)
陽と陰のように対極的な少女二人が等しく自然光に照らされながら、高く羽ばたく勇気と自信を身につけてゆく。一瞬一瞬が夢のようだが、「性」が露わに描かれてもいる。
46.ギャビー・デラル
『アバウト・レイ 16歳の決断』(2015)
エル・ファニングの役者としての底知れぬ可能性と魅力を感じさせる。公開中止を経てようやく日の目を見たこの映画のことを、ずっと心にしまっておきたい。
45.トム・フォード
『シングルマン』(2010)
その審美的な形式の麗しさはもちろんのこと、ジュリアン・ムーアの悲哀に滲む顔を眺めているだけで至福。孤独と戯れながら老いていきたい。
44.セバスティアン・レリオ
『ナチュラルウーマン』(2017)
主人公であるトランス女性が強風のなか進む場面は名場面。最愛の恋人を失ってもなお力強くあろうとする彼女の姿に鼓舞される。
43.冨永昌敬
『南瓜とマヨネーズ』(2017)
一緒に住む恋人の男と、元恋人の男のあいだで揺れ動く一人の女。彼らと別れる時のカメラの運動に、彼女の心が見事に憑依している。最後の最後にようやく聴くことのできる太賀の歌声に驚きがある。
42.セバスティアン・レリオ
『ロニートとエスティ』(2017)
制度に則るだけが「正しい道」とする人々に押し潰される。口を塞がれる。声を奪われる。それでも、「記されていない」愛を貫くだけが不服従の証明たり得る。この結末は祈り。対岸の彼らが救いや赦しでもあるようにと。
41.キッド・ベンソン
『ラブストーリーズ』(2013)
一つの物語を男性の視点と女性の視点に分化し、二本の映画にすることを試みた実験性の高い映画。そうして同じ物語は、まったく別の物語になる。男性版『コナーの涙』がより素晴らしい。
40.スパイク・ジョーンズ
『her/世界でひとつの彼女』(2013)
多様性にあたたかいまなざしを向け続けるスパイク・ジョーンズの愛の寓話。愛し合うのは人間と人間だけではない。彼が監督したロボットの物語『アイム・ヒア』と地続きにある作品と言える。
39.グザヴィエ・ドラン
『たかが世界の終わり』(2016)
ドランにとって「家族の食卓」とは「闘争の場」でしかない。家族は和解せず、永遠に隘路のまま。主人公の男は、盲目の鳥として死す。
38.アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ
『バードマン (あるいは無知がもたらす予期せぬ奇跡)』(2014)
イニャリトゥの描き続ける〈喪失〉に、軽やかさと笑いのエッセンスを加えてできた映画。彼は本当に「飛べた」のだろうか?
37.サラ・ポーリー
『テイク・ディス・ワルツ』(2011)
人生が相手を変えて踊り続けるワルツそのものだったとしても、それは決して愚かなどではない。運命は未来永劫ずっとだとか、絶対的なものではなく、メビウスの輪のようにまわっていくものなのかもしれない。
36.アレックス・ガーランド
『エクス・マキナ』(2015)
完全無欠のフェミニストSF映画。ノルウェーの緑溢れる自然のなかに佇む無機質な施設が対置される風景から心奪われる。
35.タナダユキ
『ふがいない僕は空を見た』(2012)
ふがいない僕は空を見た。空を見るしかなかった。空を見たのは〈僕〉だけではなかったことを、〈僕〉はやがて知るだろう。
34.ドレイク・ドレマス
『今日、キミに会えたら』(2011)
恋人が恋人に渡すアクセサリーに書かれた文字は「Love」でも「Believe」でも「Foever」でもなく、「Patience」─忍耐─。それだけでこの映画の真髄が汲み取れる。ラストで恋人同士が浮かべる表情をどうみるか。
33.是枝裕和
『万引き家族』(2018)
「わからない」と嘯いていた方がいい。不道徳さを責めていた方がいい。それはあなたが弱者ではなく強者であることの証拠だから。貧しくなく裕福であることの証拠だから。
32.チョン・ジュリ
『私の少女』(2014)
女が苛まれる背徳感と少女が内包する小さな悪魔がその先どうなっていくのかを想像することも恐ろしさで憚られてしまう。映画のまなざしがあまりにも「本物」らしく、後ろめたい。
31.リチャード・リンクレイター
『ビフォア・ミッドナイト』(2013)
ビフォアシリーズの内この三部作目がもっとも好きなのは、18年という実際の月日が培った役者の身体性こそがその歴史を物語るから。二人が会話してるだけで、そこに人生が見えてくる。至高の会話劇映画。
30.アリス・ワディントン
『Paradise hills(原題)』(2019)
彼女たちは肉の代わりに花を食べさせられ、華美に装飾され、すべてを監視/管理される。徹底して「着せられる」衣服は〈純白〉であり、〈純白〉は純潔と処女の象徴。彼女たちがみる悪夢を、きっと私たちもある日何処かでみたことがあるだろう。
29.フィリペ・マッツェンバシェル
『ハード・ペイント』(2018)
動画配信とクラブという文化と、セクシュアルマイノリティの主題。暗闇のなかで自らの身体にペイントし、発光させるその行為の意味を考えさせられる。彼が踊り出した瞬間に幕引きするその潔さに拍手を。
28.ジム・ジャームッシュ
『パターソン』(2016)
──「時に空白のページが最も可能性を与えてくれる」「詩を翻訳するというのは、レインコートを着てシャワーを浴びるようなものだ」
なんでもない日々が愛しいものであることに気が付いて涙するはずの映画なのに、なんでもない日々を愛しく思うことに困難なことに気が付いて涙がでた。
27.山下敦弘
『オーバー・フェンス』(2016)
──「今日から自分が変われるかもしれないって、もう死んだみたいに生きなくてもいいって、思ったのに」
蒼井優の鳥へと擬態してゆく尊い求愛ダンスのことを何度でも思い出す。羽根が綻びだらけでも誰かと出逢うとまた羽ばたけるかも、って信じてみたくなる。柵を飛び越えたくなる。彼女みたいに。
26.ルーカス・ドン
『Girl/ガール』(2018)
〈目覚め〉は映画の主題そのもの。彼女の立つ舞台の揺らめき合う青と橙の光は燃えているようで、それは踊ることへの痛烈な葛藤と、望む身体への渇望の炎だった。
25.深田晃司
『よこがお』(2019)
説明不可能な現実世界と複雑に縺れ合う精神世界とが、繊細に構成された映像で描かれる。雄弁を弄する世間と対比された彼女の「沈黙」が成り代わる「叫び」は、極上のカタルシスを喚起する。
24.スティーヴ・マックィーン
『SHAME シェイム』(2011)
スタイリッシュな映像と男の性愛。なぜ彼は色情症に苛まれているのか。途中でそんなミステリーの謎解きさえ放棄してしまうほどすべてのショットが決まっている。
23.マイケル・グレイシー
『グレイテスト・ショーマン』(2017)
#MeToo 、#TIMESUP をはじめとして「立ち上がること」が一つのムーブメントになった時代の潮流に即したミュージカル映画。豊かな物語や感情がこれ以上ないほど詰まった楽曲の数々に感動が終わらない。
22.マイク・ケイヒル
『アイ・オリジンズ』(2014)
劇場未公開で終わってしまったのがあまりにも惜しい。一つとして同じではない人間の瞳の虹彩の美しさを、スクリーンで観たかった。哲学でも隠喩でもなく、「瞳」はその人そのものである。
21.ペドロ・アルモドバル
『私が、生きる肌』(2011)
ジョルジュ・フランジュ『顔のない眼』をアルモドバル流に調理するとかくも過激に赤く染まり、狂気と愛と憎悪の化かし合いが延々と続く。小物にまでこだわりぬくこの作家の映画にあって、隅々までみることを忘れてはいけない。
20.リー・アンクリッチ
『トイ・ストーリー3』(2010)
おもちゃたちが終わりを悟りそっと手を繋ぎ合うとき、親子が別れを感じ抱きしめ合うときが特に素晴らしい。普遍的な感動が描かれるアニメーション映画の最高峰。
19.ラース・フォン・トリアー
『ニンフォマニアック』(2013)
フォン・トリアーによる知的なポルノコメディ。性に奔放な女性と童貞の堅物老人の対比の滑稽さが面白い。オチがウィットに富んでいる。
18.ドゥニ・ヴィルヌーヴ
『メッセージ』(2016)
映画は言語から時間の問題へとながれていく。形而上的な世界における終奏のシークェンスはテレンス・マリックへのオマージュであるようにも感じる。もし悲しい未来が見えてしまったとしたら、私たちは同じ選択に手を伸ばせるだろうか。
17.デイミアン・チャゼル
『ラ・ラ・ランド』(2016)
オープニングシーンのミュージカルで心が踊らなかった観客が果たしているだろうか。映画史を乱反射させた現代ミュージカル映画の傑作。
16.デヴィッド・ロウリー
『A GHOST STORY ア・ゴースト・ストーリー』(2017)
定冠詞ではなく不定冠詞の物語。匿名性が高いゆえにあらゆる人の人生をも憑依させる魔力を纏っており、まるで映画自体が亡霊であるかのようにたちまち取り憑かれてしまう。だからその意味において、映画が亡霊を描いていると言うよりも、映画自体が亡霊そのものと言った方が正しい。
15.デレク・シアンフランス
『ブルーバレンタイン』(2010)
〈愛の輝き〉ではなく〈愛の褪色〉について描いた映画。2010年代の映画史上、最も美しいエンドロールの一本としても挙げたい。
14.ベルナルド・ベルトルッチ
『孤独な天使たち』(2012)
巨匠ベルナルド・ベルトルッチが病により変容してしまった身体で撮った本作には、間違いなくその身体性が投影されている。遺作となったことを思うと、その事実があまりにも胸に迫る。主人公が映画の終わりに別れたのは、姉ではなくベルトルッチその人だったのだ。
13.ジャン=マルク・ヴァレ
『雨の日は会えない、晴れた日は君を想う』(2015)
喪失を越えるため、私たちには何ができるのか。そして何ができないのか。そもそも喪失したものとは一体「何」だったのか?物質的な破壊と構築を眺めながら、私たちはやがてその答えに辿り着く。
12.白石和彌
『彼女がその名を知らない鳥たち』(2017)
落下が続く。女は見下げ続ける。たった一人の愛する男の「飛翔」を最後に見上げるまでは。映し出される無数の鳥たちが背負う無数の感情は、そのまま愛の表情でもあった。
11.マイク・ミルズ
『人生はビギナーズ』(2010)
マイク・ミルズの映画は、誰もが人生は初めてだから初心者で不器用でもいいんだと頷いてくれるような優しさと、誰ともうまくやれない寄る辺ない孤独の両方をそっと抱えている。
10.ブラッドリー・クーパー
『アリー/スター誕生:アンコールバージョン』(2018)
真の意味で「顔」は映画によって「発見」されたことを思いだす。レディ・ガガの顔に恋し、そして彼女に捧げられた映画。
ーー「人生が終わる時に貴方の顔が見たい、叶えてくれる?」
9.真利子哲也
『宮本から君へ』(2019)
言葉によって話されていることを信用してはいけない。大胆なことに惑わされて繊細なことを置き去りにしてはいけない。両義的なイメージの連鎖によって意味を重層化する本作こそが芸術映画の名に相応しい。
8.レオス・カラックス
『ホーリー・モーターズ』(2012)
映画館での鑑賞しか許されない映画があるとすれば、それは間違いなくこの映画のことを指す。往年の映画作家がスクリーンに登場した瞬間の高揚感は忘れられない。
7.トム・フォード
『ノクターナル・アニマルズ』(2016)
『シングルマン』に続き、トム・フォードの映画監督としての地位を確固たるものへと到達させた一本でもある。カー・チェイスシーンの没入感と恐怖は凄まじい。
6.李相日
『怒り』(2016)
役者の本質的な感情を剥き出しにするような李監督の恐るべき手法にひれ伏す。それは観客の心を掻き毟って立ち直れなくしてしまうほどの凶器でもある。
5.ニコラス・ウィンディング・レフン
『ネオン・デーモン』(2016)
一瞬のショットの切り替えで「明」から「暗」へ、「純白」から「漆黒」へと変容する世界。バルザックの『金色の瞳の娘』をも彷彿とする、「自己愛」が正しく表象される悪夢。
4.リチャード・カーティス
『アバウト・タイム』(2013)
タイムトリップの能力があったなら。何度でも人生をやり直せたら。そんないくつもの〈if〉のなかで、日常のささやかな煌めきと幸福を丁寧に描きだしていく優しい映画。優しくない瞬間など一秒もない。
3.アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ
『BIUTIFUL』(2010)
綴りの正しくない映画名がすでに物語っているように、「正しさ」とかけ離れた「美」について、ここまでの強度で知らしめてくる映画は他にはない。パッケージに付録されたメイキング映像はイニャリトゥの映画製作への「美」に溢れており、合わせて感動的。
2.トッド・ヘインズ
『キャロル』(2015)
忠実に再現された1950年代に女性二人が恋に落ちるということ。思えば私たちの旅は、あてのないドライブのようなものだった。思えば恋は、いつも視線と視線が合ったその瞬間から始まっていた。いくつもの感情を喚起する再現性の高いレズビアン映画。
1.グザヴィエ・ドラン
『わたしはロランス』(2012)
フランス国際映画祭でこの映画を初めて観た日。エンドロールが終わった瞬間に多くの観客が固唾を呑んだ音が聞こえた気がした。グザヴィエ・ドランという次世代の映画界を担っていくであろう天才作家の存在感が世に示された記念碑的フィルム。
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