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◎百足の草鞋/必中!文筆稼業漂流編



 以前、誰かに『なんで先生って呼ばれるんですか?』と聞かれたことがある。名優・若山富三郎は後輩俳優に自分のことを『先生』と呼ばせていたらしいが、さて『先生』とはいかなるものか? やっぱり人の上に立つ、偉い人のことを呼ぶのかな。自分の場合どっちかといえば時代劇の用心棒が『先生』と呼ばれている、あれに近いかな、と都合よく思ったりもする。あれもなぜ『先生』と呼ばれているのか、謎ではある。まあ、調べればすぐわかりそうだけど、今回はそう言った語源を探る内容ではないので、この辺で。

 なぜ『先生』と呼ばれているのか? それは専門学校で講師を長年やっているから、先生と呼ばれても仕方ない。この専門学校のことについては『百足の草鞋/熱中!教鞭悪路編』で。ではなぜ専門学校で人にものを教えているのかといえば、曲がりなりにも自分が『作家』だからなんだろうな。たまに『ライトノベル作家』とも呼ばれたりしますが、それも数えるほどしか出していないのでお恥ずかしい限り。作家、ライター、文筆業、様々な呼び方があるけど、自分は雑多に文章仕事を引き受ける『雑家』だと思っている。でも浸透しないですな。『雑貨屋さん』と間違われそう。

 ではなぜ作家になったのか。幼少時より書籍に囲まれて育った……わけでもない。御多分に漏れず自分も文字よりも絵の多い本が好きな子供だったし、前回書いた通り、映画という総合芸術の魅力に取りつかれて今までやってきたので、本を読むことはあまりなかった。作文すら苦手だった自分がなぜ、こんなことに? もともと映画好きが高じてそういったことを専門に学ぶ学校に進んだものの、卒業したらすぐ映画スタッフや監督になれるわけもなく。数本の8ミリ映画を残し、まったく違う職に就いた。先輩の『ここ出て車のセールスマンやってる先輩もおるで』の言葉がよみがえる。そんな人間にはなりたくない、そう思った人間になってしまった。それでも、書店員や保育士の仕事もなかなか楽しくて、それはそれで充実した毎日を送っていた。でも、そんな中で『何か違う』と思いはじめた。なんか違うんだなぁ、なんだろう。映画を作りたい! いや違う、手間もかかるしお金も人手もいる。一介の書店員にできるわけはない。じゃあ、シナリオなら? あれなら紙とペンさえあれば書けるのでは? 幸い、学校でシナリオの作法は学んでいたし、朝日ソノラマから出版された金城哲夫、上原正三のシナリオ集を参考に自主製作映画でも何本か短いものは書いてきた。『これならいけるかも……』と、まずは当時放送中だったウルトラマンのシナリオを書いて、無謀にも制作会社に直接送りつけた。200字詰め原稿用紙に手書きのシナリオだ。内容は宇宙人が……しまった、放送中のシリーズには宇宙人が出てこない設定だった。それにこんな素人のシナリオなんて相手にしてくれるわけがない。でも、かつてさる学生が書いたプロットが採用された、という特撮業界の伝説的なエピソードを心のどこかで信じていた。それからは暇を見つけてはドラマのシナリオコンクールに出してみたものの、結果は芳しくなく、某少年漫画誌の漫画原作公募にも送ってみたものの、これもダメ。そんな中、某CS局のアニメ企画大賞に、没になった漫画原作をブラッシュアップして、さらには『もし1クールのアニメになったらこんな展開になっていた』というシリーズ構成を付け加えて応募してみた。学生時代、友人たちとさんざんやった『アニメの企画ごっこ』がここで生かされた。すると、その作品が佳作入選! 小池一夫を筆頭に押井守、佐々木守、永井豪、雨宮慶太といったそうそうたる審査員のお眼鏡にかかったのだ! 特に永井豪に認められたのが超合金世代としては何より嬉しかった。やった、これで作家になれる、いやなったんだ! それからは名刺の肩書に『作家・シナリオライター』とつけて、これまた無謀にも各制作会社や演出家の方に『ライターなんですけど仕事ください』メールを送り付けた。今から思うととんでもないことしたな、と思う。でもその中で唯一返事をくれたのが、先述したウルトラシリーズも執筆されていたシナリオライターの方で、『シナリオライターは打ち合わせが多いし、大阪在住のあなたは小説のほうがいいかもしれない』というアドバイスをいただいた。でもその時はまだ『小説ぅ? あんな長いもの書けるかな』と思っていた。


 それからしばらくして。東京に出てアニメシナリオライターとして売り出し中だった友人から『ゲームの小説書かないか』という連絡を受ける。ゲーム小説? でもやってみようじゃないの? 短編とはいえ、好き勝手に書いたそれは無事に出版。それが実質上のデビュー作となる。なぜ、受賞した段階で東京に行かなかったといえば、その時すでに結婚もして、一戸建てに住んでいたからだった。いわば遅咲きのデビューということになる。その家がどうなったのかは、第一回の原稿に書いてあるので、よろしければ、ぜひ。

 無事にデビューしたものの、次はどうなるのか? とりあえず版元の担当さんにお礼と、それと書店の仕事で東京に出張に行くので挨拶させてくださいといった内容のメールを送った。その時『いつ何時、誰の挑戦も受けます』と、アントニオ猪木の名言を引用して書いたのだ、あほか。そうすると本当に先方から挑戦状が来た。今度は丸々一本書いてほしい、と。次回もゲームが原作。陰惨なラストが話題を呼んだアダルトゲームだ。よし、その挑戦受けて立つ、とゲームをプレイし、何とか一本書きあげた。あれだけ作文が苦手だった人間が、である。ただし、出版社のカラーでアダルティな内容と陰惨な描写は避けてほしい、ということだったので、思い切り自分の好きな方向に舵を切り、大映映画『妖怪百物語』のクライマックスを絡めてみた。あほか。ゲームのファンからすれば呆れられただろうな、と思う。これが長編第一作である。次はどんなゲームのノベライズかな、と思っていたら担当さんが『赤坂行きましょう』と連れて行った場所が当時はコンピューター関連やゲーム攻略本を出していた、今や携帯電話で有名な某会社。そこから新たにライトノベルのレーベルを出すので、何かできないか? というお話だった。もちろんお引き受けしますと、ボーイミーツガール、それと最後に大乱闘という『ビーバップハイスクール』みたいなプロットを送った。それだとパンチが弱い、ということでやり直し。クライマックスの京都の修学旅行で大混乱、とい部分は残して、あとは大刷新。まず女子が圧倒的に少ないといわれたので女子キャラ大増量、と思ったがやみくもに出すのもなんだと思い、何かしらのモチーフがあるほうがいいな、と考えてみた。干支、星座、太陽系の惑星、ギリシア神話……どれも手垢がついているものばかり、だれも触っていない集団キャラクターもの……そうだ『忠臣蔵』だ! 赤穂四十七士を全部女の子にしてやれ! すると担当から『自己紹介で一冊終わってしまいます』とのこと。ほどほどの数で……そうだ、真田十勇士はどうか? 十人グループだし、それほど多くない。それなら大好きな映画『真田幸村の謀略』のエッセンスを存分にぶち込める! と、プロットを書き始めて約一年がかりでオリジナル第一作が完成した。書店で働いていたので、新刊情報が待ち遠しかったし、書店で自分の本を並べて売る、なかなかできない体験ができたのだ。ある日、自分の本をレジに持ってきたお客さんがいたので、うれしくて『作者です、サインしましょうか?』と言って断られたことがある。あほか。発売されてからは大阪日本橋、東京秋葉原でゲリラ的に営業活動もやった。書店のラノベ担当に事情を説明して平台においてもらったり、手製のポップを飾ってもらったり。これも、自分が働いていた書店にゲリラ営業に来たとある漫画家さんからヒントを得たものだった。ある時は本物の出版社の営業さんと鉢合わせして逃げそうになったこともあった。別に悪いことしてないのに。

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 三年で三冊、年に一冊のペースでシリーズは刊行され、特に大きな評判もなかったらしく、予定通りに終了。そのレーベルにはその後も何度かプロットを送ったものの色よい返事が来ず、いつしか疎遠になっていた。知り合いの作家に頼み込んで他社も紹介してもらい別名でゲームノベライズを書いたり、東京の編集プロの依頼でゲームシナリオを書いたり……それからはとにかく文章仕事ならどんなジャンルであろうと引き受けた。まさに『いつ何時誰の挑戦も受ける』である。下請けでも孫請けでも構わない。まあ、出来不出来はさておいて……。雑誌のキャプション、ネットの住宅コラム、インタビュー起こしにエロゲーシナリオ……どの仕事も楽しくて新鮮だった。専門学校で、地方のラノベ公募を学生たちに勧めつつ自分も書いてみたら、入賞したこともあった。もちろん、こなした数以上に流れた企画もあるし、ノンクレジットの仕事もあった。本音を言えばコンスタントにラノベを出し続けていきたいと思っていたが、そこまでの文才はなかったし、出版社としても離れていった人間よりもフレッシュな人材を欲しているのはどこも一緒だった。

 一方で学校の後輩や同期の作家が安定した作家活動をしたり、大々的に名前が出たりするのを見て羨ましかったり、妬んだり僻んだりもしたし、本屋に行くのもテレビアニメを見るのも嫌になっていた。今はもう、そんなことはない。だらだらとモノカキ業を続けていくうちに、自分のこのスタイルこそがオリジナルという、半ば開き直りのような意識が芽生えたからだ。『刃牙』でいうところの『右手を失ったのではない、隻腕という個性(オリジナル)を得た』である。いちいち例えがどうにもわかりにくいですね。他人の真似はできないけど、自分の真似だって誰もできない、まあ、したくないと思うけど。

映画『カリフォルニアドールズ』のように、あっちに行ったりこっちに行ったり、どんな内容でも引き受け、いつかいいことあるさ、と笑って過ごす。と、そんな感じでやってきた、つもり。
 

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そんな中、電子書籍でラノベを久々に書いてから、ゴジラ本に企画から参加した時はモノカキ業で大好きな怪獣に関われることができて本当に嬉しかったし、電子書籍がきっかけで約月一ペースで書いてきた映画紹介記事が一冊の本にまとまった時も、同人誌とはいえ、やっと自分の好きなことができた! と嬉しかった。そんな縁を生んでくれた人たちのことはいずれ『京都寝屋川怪獣模様編』で書くつもり。 

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 しがない作家、を地で行くことになったけど、それはそれで楽しいのであります。
 なので、これを読んでる方でもしよかったら、モノカキ仕事を、どうかよろしく。

『いつ何時誰の挑戦を受ける』の精神は腐っておりませんので。それと、いまだに公募に出したりしています。(文中敬称略)


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