ピンホールの内側ブラックホール

今日は晴れた。
バイトだった。
昨日の夜買ったセブンの菓子パンで昼から夕方まで働いた。
社会的生活をはじめると、すぐに食欲がなくなる。
理由はいくらでもあるけど、人様に喋ることじゃない。
みんな朝から夕まで働いて、自分の面倒を見て、純粋にすごいな、と思う。
『どうやって食べていくの?』とは、私の誕生以来、私の形をした私という何かに向けて、外部から問われ続ける難問。
私は、これが分からない。
食っていくことではなく、この質問の意味が、そもそももって分からない。

いったい人はそれで私に何を訊いているのか。
これがまったく分からない。
あるいは単に心配してくれているのか。
でも、何を?
あるいは経済的に自立しろ、という素直で鋭い指摘。
もっとも、考えなくてもそうなのだろう。
では、私の経済的な自立を促す背景は何か。
親類や周囲に金銭で迷惑をかけないため。
の垂れ死にしないため。
社会を支える一個人になるため。
これらを私に達成させるためであろうか。
しかし、これら私の問題は、人様にとっていかほど重大か。
いやいや全然重大でない。
では、なぜそんなに深刻そうに。
厳しさの中にある本当の優しさに気づきなさい的なことかしら。
あるいは、単純に怠け者が気に入らない?

いや、しかしその厳しさというものを取り出して観察すると、どうやらこれはただ、周りを見なさいということらしい。
さて、私は生まれてこの方、周囲の状況をこそ何よりも見てきたつもりだったけれど。
これはいったいどういうことか。
熱心に周りばかり見ていたら、あちらとこちらとの間に途方もない断絶をみたから、今日こういうことなのだ。
それは遥か幼稚園からの決別である。
「大人になれない子ども」「口先だけ」とか好きに言ってくれて構わないけれど、そうして自分の立ち位置を確かめていることにおいて、私が非常に社会的に機能しているという事実は、ことごとく反省されていないようである。
あなたのアイデンティティは誰に担保されているのか。
『実際、楽したいだけでしょ。』
それはそう。
あなただってしたいはず。
でも、実際に楽をしているのは果たしてどちらか。
誰にそれを判断できるのか。

『就職して働きながら、そのなに、作家活動?すればいいのに。』
そもそもまともに働けるずぶとい精神があれば、絵なんてどうでもいい。
あんなの何の役にも立たない。
作文なんかするわけない。
あんなの自分に酔いたいときしか誰も読まない。
芸術を保護しろとか、アーティストは大事だとか言うけれど、まさか。
私はそうは思わない。
それらは、ただ「ない」で済まないだけの話で、ないで済むなら無用の産廃。
趣味でやっとけ、である。
いっそこの世から全部のアートやらを消せば、人間社会そのものがアートになると思われる。

しかし、不思議なことに、それ以外にやりようがない人間が存在する。
これはまったく不可解だけれど、全員生まれた時点で、この世界はまったく不可解であるから、分からないでもない。
どうしようにもこれしかできない。
他のことが手につかない。
あるいは、その唯一のことさえ手につかず、途方に暮れることの方が大きい。
仕事にも趣味にもならない。
というか、なんとか工夫して真似してみるけど実際、「仕事」も「趣味」も、その意味するところを何ら理解し得ない。
ただ、これ以外にしょうがない。
そういう人間というのは、どうやら確実にいるようである。
ただそれだけのことが、どうにも突っ込みをいれずには済まないというただそれだけの話。

さっきベランダから月を見ていた。
満月が近いようで、異様にギラついている。
薄く流れる雲が光を乱反射して、その裏で余計にどぎつく光る。
じっと見つめていると、月は揺らめいているようである。
輪郭が絶えずぶれて、次第にあれは穴ではないかと思い始める。
つまらないことを言うようだが、歌とか詩とかで昔からありそうな空想の感じ。
子どもの頃作った簡易プラネタリウムのように、あの輝くいびつな丸は、実はピンホールの穴ではないか。
いや、これは本当につまらない。
しかし、つまらないことはつまらないだけで隠すこともない。
太陽は肉眼で見続けられないけれど、月なら見続けられる。
では、月が出てからまた消えるまで、一晩中監視し続けたら、人間にはどういう変化があるのだろう。
ずっと眼を離さずに、ひたすら見続けたら。
あるいは、そういう視点は、現代とか社会とか言う色々な得体の知れない天体の重力によって、その内側に、一つ残らず歪み沈むようである。
オオカミ少年。
半分神の、半分人間。