ハリボテ日記(床屋と冷蔵庫)

今日も頭痛からはじまった。
しかしやはり頭痛薬を飲みたくなかった。
だから瞑想した。
30分することにして、アラームをかけた。
そうすると、時間を決めなかった昨日とは違い、驚くほどすんなりできた。
人間は終わりが明確でないと、どうしても不安が生まれるらしい。
時間というものは、非常に良くできたフィクションだ。
頭痛も消えた。
瞑想はした方がいい、特に脳を活用して生きている人は。

髪が伸びて鬱陶しくなったので、切りに行った。
以前行った店が休業していて、仕方なく違う店に行った。
結果から言うと、なかなか悲劇だった。
正直、下手だったし(ベテランのおじさんだったが)、なによりオジサン臭のする剃刀クリームが最悪だった。
たぶん何万人と切ってきたのだろうけど、それでも下手という人もいるのだな。
いや、決して悪口でもないし、そもそも髪を気にしていないから安い店を選んだので、文句もない。

美容室の値段設定には、ある程度説得力を感じる。
というのも、私の髪質と生え方の癖は、かなりの美容師殺しなので、切ってもらったらすぐに腕前が分かる。
経験から言うと、チャラチャラしてる人の方が上手い。
今日のオジサンは、直観が絶望的だったのと、デッサン力(あるいはイメージ力と呼んでもいい)が乏しかった。
しかし、状況対応力(なんとか誤魔化す力)は、さすがに年季が入っていて、最後は上手く取り繕っていた。
が、もっと勝手を言わせてもらえるなら(私はこういうふうに一見で、その人のすべてを見抜いた気になるので、よく失礼をする)、器が小さすぎた。
切りはじめて5分もしないうちから焦り始めて、言い訳じみた会話をベラベラし出すので、よほど臆病な人だろうと感じた。
私はというと、自分の髪型が、これからどんな絶望の彼岸に辿り着くのかと、なかば意気消沈しかけた。
けれど、目の前の状況を受け入れるのも悪くないと思い直し、なるべく鏡は見ないようにオジサンの喋りを受け流していた。

よく一流とか二流とか三流とか言うけれど、私の考えを言わせてもらえれば、これはもう本人には決めようがない宿命のようなものだと思う。
一流に生まれついたら、どうやっても一流になるし、三流に生まれれば、どれだけ努力しても三流である。
こういうことを言うと、たぶん非常な反感を買うのだろうが、はっきり言って、まず間違いない。
もちろん一流に生まれれば努力がいらないというわけではない。
これもまたよく聞くたとえだが、ダイヤモンドは磨かなければ、ただの石である。
そして、ダイヤモンドではない石をどれだけ磨いてもダイヤモンドにはならないように、三流は一流にはなれない。
素質の違いは、乗り越えようがない。
ただ、裏を返せば所詮はどちらも石ころである。
そこに価値を見出だすのも、同じ石ころなのだから、突き詰めれば、たわいない話だ。

私が、髪を切りに行っている間に友人が冷蔵庫を見つけていた。
探していたドリンク用の小型冷蔵庫だ。
定期的に見に行くと行っていた近所のリサイクルショップを覗いたら、たまたま昨日入ってきたらしかった。
時期も時期なので、『ホントに奇跡のようなタイミングでしたね』とは、店員さんのセリフだそう。
このように、生きていれば、けっこう奇跡は起きる。
それもそのはず、そもそも生きていることが奇跡である。
いや、別に私は癌から生還したわけでも、スラムから這い上がった慈善家でもない。
私が言いたいのは、"存在"それ自体が、まったく不可解で、理性的に理解不能な出来事なのだから、"生きている"限り、これはすべて奇跡的なことに思われる、ということだ。

しかしまあ、よくこんなどうでもいい個人的出来事を、いかにも壮大な感想に仕立て上げるものだ。
私は自分の文章のインチキさに、しょっちゅう唖然とする。
これは、最善の道を進んでも二流の下くらいなものだろうと思う。
もし二流の上に辿り着いても、それは身に余る幸運の結果だろう。
努力でいけるのは、せいぜい二流の下だ。
少なくとも完全無欠に一流にはなれないし、三流止まりと言うと、下があまりに可哀想だ。

なんだか自分の皮肉家ばかりが目立つ日なので、今日はもう書くのをやめる。
また明日。
いやしかし、"また明日"という奇跡は一体どうなっているのか。