石のおもい

夜中なかなか眠れなかった。
そのせいで結構遅くまで寝てしまった。
昼からバイト。
連休明け、店はまた静かになった。

昨晩読むともなしにページを繰っていた本の一節が、今日も頭の片隅にある。
別段深く考えているわけでもないが、気になったのだろう。
少し書き出す。

《満足とか不満とかいうものは、なんら本人の自覚とかかわりがない。自覚されぬ不満こそ、ここでは問題なのである。本人の自覚のうちにとりいれられた不満や不幸が、そのひとの致命傷になったためしはない。そういう不満や不幸は、味わい楽しむことさえできる。むしろ、今日では、すべての不幸や不満が私たちの自覚のうちに組みいれられ、もっぱらその解決策にかかずらっている私たちの背後に、別のどうしようもない不満や不幸が忍び寄っているのではないだろうか。》

評論やシェイクスピア全集の翻訳、また自ら主宰した劇団の劇作家・演出家として知られる福田恆存の著作『人間・この劇的なるもの』冒頭15pからの抜粋である。
ここでは、現代人に日々堆積していく"みえない"不幸(不満)の印象が非常に端的な表現で示されている。
なんとなく、太宰の言う"漠然とした不安感"を思い出す。
これは確か高校の終わり頃に購入した文庫だ。
当時一度まじめに読んだ覚えがあるが、今よりもさらに無知に、ただ何か大事なことが知りたいという好奇心だけで読んでいたはずなので、改めてページを開いてみると、自分がやはりまだ何も知らないことに気づく。

ときどき、ひと一人がやっと地上に二足歩行して佇んでいるのをみて、その断崖絶壁ギリギリのバランス感覚が、途方もなく繊細な仕掛けになっていることを目の当たりにしてあっけにとられることがある。
ほんの些細な吐息が、積み木細工をいとも簡単にバラバラにして地面に散らしてしまう。
ストーンバランシング(ロックバランシング)という河原の有象無象の石などを素人目からは不可能に思われるような驚異的な造形で積み上げる競技?芸術?スポーツ?がある。
あれを見ていると、ちょうど私たち人間一人ひとりも、実はあれくらいアクロバティックにほとんど理解に苦しむような不可解なバランスで地べたに影を伸ばしているという気持ちがする。

曲芸的な石の重なりのそばで、行く川の流れは絶えない。
私はそこで少し水浴びをするつもりだったか、水面に顔を近づけて渇きを癒すつもりだったか。
気づけば川底の石だった。
とたんに思い返すのは、さて川底の無数の石ころである前に、私はなんであったのか。
ひょっとすると川の流れそのものではなかったか。
私が川に入ったのか。
それとも川から私が出たのか。
そもそもこの悠久の流れはなんなのか。
わずかに地面が震える。
また振り出しから、記憶を辿る。