ライトニングとランニング(日記)

雷の音で目が覚めた。
午前中は大雨だった。

小さい頃から雷が怖い。
子どもの頃、ほとんどなんでも怖かったのだけれど、雷は特に怖かった。
小学校の帰り、大雨の中、友達と帰っていて雷が鳴りはじめると、怖くて一緒に走ってもらった。
たまに建物の陰に隠れて、また走って、また隠れる。
私の家に着くと、親は仕事でまだ帰っていない。
一人だと家の中でも怖いので、雷が止むまで居てくれるよう頼んだこともある。
優しい友達で、家も近かったので雨宿りがてら一緒に雷の止むのを待ってくれた。
それくらい雷が怖かった。

当時から自分がなぜこんなに雷を怖れるのかが不思議だった。
たぶん雷に打たれたら死んでしまうからだろうが、そのイメージがテレビで見た映像からなのか、親などから聞いた話なのか分からない。
へそを取られると言うが、それよりも一層切迫した恐怖があった。
とにかく自分の行いや、自分が子どもであることなどの諸条件を無視して、(非常に低いが)確率的に死亡させる可能性があるという雷の凶暴性が、非常に理不尽で避けがたいものに思われた。
小学生の時にこんな小難しい言い方はしなかったけれど、考えていたことの内容は変わらない。
また、あの音である。
ピカッと光ったあとに訪れるあの爆音。
まるで破れることのないものを無理矢理破いているような音が頭上から聴こえてくるのにすぐそばにいるような、なんとも言えない音。

家族とリヴィングで団欒していても、やはり雷は怖かった。
雷が家に落ちたら、家中の家電製品がショートして、自分たちが見つめているテレビから過剰な電圧が流れてきて、みんな丸焦げになって死んでしまう、と思っていたのだ。
でも、基本的に大人はそこまで雷を怖がらないので、雷を異常に怖れることを大々的に言うのも憚られた。
大雨と雷鳴の中、傘を差すのも勇気がいることだった。
傘を差せば、雷にあたる確率が上がると考えていたからだ。
雷が鳴れば、今すぐ車の中に避難したい、そう思っていた。
車は構造上、避雷針として働くことを知っていたのだ。

今でも雷は怖い。
しかし、昔ほどではない。

ところで、今日夜にランニングをした。
久しぶりに走ると、自分の体力の落ち具合に驚愕した。
走り出してすぐ脚が痛くなるし、序盤から呼吸が苦しかった。
元々運動をするタイプでもなく、今は家の中に閉じ籠っていることがほとんどなので、運動不足が極まっていた。
走り終えて、素晴らしく清々しい気持ちになるだろう、と、期待していたのだが、そんなことはなかった。
気持ちよかったし、久々の肉体的疲労は心地よかったが、期待しすぎたのがいけなかったのか。
少し残念に思った。