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「金属加工工場を継いで」前編

みなさんこんにちは。muracoの村上です。早いものでnoteを初めて3回目の投稿となります。誰か読んでいただいている方がいるのかいないのか非常に微妙ですが、「継続は力なり」という事で。

さて、今回は僕の会社の昔の事を書いてみようと思います。少し長くなってしまいそうですので、読み飽きたらドロップしてください。
挿絵になる写真も全然ないです。読み飽きたらドロップしてください。

「株式会社シンワ」が僕の会社の社名です。1988年に法人化しました。

※冒頭の写真は埼玉県日高市に「株式会社シンワ」が移転した当時の配達用の車と、会社の駐車場です。右側は加工後の鉄の切り屑「通称キリコ」、左側が工場です。山と渓谷社さんの「アウトドアメーカー探訪期」で取材を受けて引っ張り出してきたので、こちらでも。

父、善一の、「進和製作所」の起業。

野球少年(背番号19番)だった私の父は、宮城県蔵王町の出身で、高卒で東京に出て、立川や日野に住みながら、武蔵村山市にある金属加工の会社に就職します。その後、1974年(34歳当時)に独立し「進和製作所」を起業します。社名の由来は当時勤めていた日進製作所という会社から「進」をもらい、さらに日本の「和」を使って命名したそうです。当時母親は、僕の姉を妊娠していたそうで、そんな中会社を辞めて起業した事で家庭内は想像するにあまりある、殺伐とした状況だったとの話もあります。その2年後に無事に僕も生まれてこれてよかったです。

父と母は事業計画を手に、工作機械を購入する為、金融機関に融資を取り付けに奔走します。埼玉銀行(現埼玉りそな銀行)には門前払いされたが、飯能信用金庫には話を聞いてもらえ、旋盤一台分の融資を受ける事ができたそうです。当時の飯能信用金庫の支店長とは、父が存命中ずっと親交があったようで、今では僕もなんとなく、飯能信用金庫への恩義のような物を感じています。

そして父が起業した場所が、埼玉県入間郡大井町(現ふじみ野市)です。居抜きの、本当に小さな工場付きの借家で、家は平屋の1Kでした。本当に貧乏だったので、僕は姉のお下がりを着たりしていたようです。それでも細々とですが、高度経済成長の波に乗り、仕事は順調に増えていったようです。

その後手狭になった大井町の工場から、埼玉県日高市に移転し、社員を2名抱えるようになった1988年、法人化し「株式会社シンワ」となりました。

「父からの誘いとの葛藤」

父は、僕がサラリーマンをしている間、事あるごとに「そろそろ手伝ってくれ」と話してきました。当時は、父のその口ぶりから「冗談のように言っているんだろうな」と思っていましたが、今同じ立場になると、本気で手伝って欲しいと思っていたんだなと理解しています。でも僕自身は大井町での「進和製作所」時代、子供ながらに暗い、汚い、危険(俗に言う3K)を肌感覚で感じていたので、父親の会社に入るイメージは全くありませんでした。

そんな僕も30歳の時に、会社を継ぐ事を決めました。当時、トランスコスモスという会社に勤めていた僕は、なんとなく会社に自分がいる事の意味を失いかけていて、ひっそりと転職活動をしていました。

社内外でそこそこ顔が広くなっていた僕に、「うちのチームに来い」、「俺の下に来い」などと誘って頂く方もいましたが、一方で別に面接を受けていた外資系FXの会社から、是非きて欲しいと言われ、ほぼそこに行こうと考えていました。そんな折に実家に帰るとまた父親が「そろそろ会社に入れ」と言いました。

「シンワに入社する決断」

その言葉を少し間に受けた僕は、少し自分の置かれた状況を考えました。「相談もなく、しれっと転職をしたとしたら親はどう思うのだろうか」、「僕が小学生の頃から社員として働いてくれている工場長は2代目が居なかったら転職してしまうのだろうか」などと考えました。さらに、FXの会社に入り事業貢献したとしても、その先に見えるのは投資家の利益だけ。シンワであればものづくりの仕事を通じて、工業製品の進歩に寄与し、世の中が便利になったり、安全になったり、面白くなったりすることの一端を担えるのではと考えました。

「でもあの汚く狭い工場で働くのか・・・」「自分にも機械の操作が覚えられるだろうか」というネガティブな考えは消え去りませんでした。

それでも、将来的に経営者を目指せる環境は誰もが持っている物でもないなと感じたし、スタートアップではなく、会社の基盤はそこそこしっかりしていそうだと感じていたので、最終的にはシンワを継ぐ決意をしました。

村上卓也30歳の冬。笑

理想と現実

入社してまず気付いたのは、会社に漂う「緩さ」でした。今までの会社員生活でシステマチックな環境に慣れていた僕には、納期管理、残業の感覚、経費の感覚などが、「アットホームな」という耳障りの良い言葉に置き換えられ、最低限の管理もされていない状況だと気付きました。

ここは僕の推察ですが、父も母も、恐らく「こんな小さな会社で働いてくれてるんだから」というような言葉を思い浮かべていたのだろうと思いました。

入社前は、社員は少数精鋭で、みんなが社長である父を盛り立て、一丸となって業務に邁進しているのだと思っていましたが、各々が自分の職域を超えず、僕には個人商店の集まりに見えました。

社風を変えるために

このままでは、シンワに入る決断を後悔してしまうと感じました。それを防ぐには、この会社を、金属加工の職人を抱える町工場から、企業の体をもつ金属加工工場にしなければいけないと思いました。積極的な設備投資、営業部門の立上げ、事務方の権限強化、就業環境の向上など、成すべき事は多岐に渡っていましたが、資金力はまだまだ乏しく、一つ一つ積み上げていくような状態が5, 6年くらい続きました。
それでも少しずつ新しい設備に更新し、加工効率を少しずつ改善し、営業部門創設などで、業務効率が少しずつ上がり、受注キャパシティを少しずつ向上させました。
従業員も縁故中心でしたが徐々に増え、事務、営業、生産管理と担当をもたせ、生産支援も実現しつつありました。
そんな折、会社の方向性を変えるショッキングな出来事が2つ起こりました。事件ではありませんよ笑。正確には「会社の方向性を変える2つの言葉」です。

長くなったので、奥義「後編に続く」を使います。

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