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英語が出来る生徒へのアプローチ

英語科教育法Iの第13回の振り返り。
スピーキングの模擬授業回。先生チームが3人。生徒役は(私も含めて)6人。

今回の模擬授業のメイン活動は、与えられたトピックについて、2分間1人で話し、その後他の生徒が質問し、話し手はそれに答えるというもの。

トピックは、"A person you want to get married to"といった結構攻めたもので、「favorite foodとかfavorite singerとか普通のトピックだと盛り上がらないと思った」という先生チームの狙い通り、生徒役は(中学3年生という設定を忘れるぐらい)かなり本気で考えて話そうとした。
また活動前に先生から「先に結論を言ってから、その付け加えをすると分かりやすい」という指導を受けたことで、生徒は一文目で与えられたお題に対する答えを述べ、周りの生徒もその答えを理解した上で、続きを聞くことができた。
トピックそして生徒によっては2分間話し続けることができないこともあったが、その場合も臨機応変に「じゃあ、みんな質問してあげよう」と活動を展開した。

生徒に託した活動の時、先生の役割は?

検討会では先生チームの1人が、「先生が教えるというよりは、生徒に託した授業だったけど、その時の先生の役割が分からなかった」と振り返ってくれた。

検討会後に時間があれば私からこの問いを投げかけてみようと思っていた部分で、学生の方からこの思いが吐露されたことだけでも、今回の模擬授業をやったことの意義があったと言ってもさほど大袈裟ではない。

そしてこの難題に対するヒントが生徒側から出てくるのが、「対話型模擬授業検討会」の強みである。この授業に対する生徒側の振り返りの中には以下のようなものが見られた。

  • 英語が分からないので、英語のできるクラスメイトに頼ろうと思っていた。

  • 自分の知ってる英語を言って、クラスメイトに伝わる?(難しすぎないか?)

  • 話すことがなくて困った。

  • 質問が思い浮かばない。

  • 先生にも会話に入ってきてほしい。

生徒は英語でのやり取りが成立するかどうか、あるいは話せる内容が十分かどうかについての不安をそれぞれ持っていた。
これらの中にもしかしたら今回先生が果たすべきであった役割が隠されているかもしれない。

逆に役割を上手く見つけられなかった先生側の思いはこうだ。

  • 正しい英語を教えてあげたいけど、自分の英語力にも自信がない。

  • 生徒同士で会話していることで楽しんでいるから、そこに先生が入ると楽しさが減るかもしれない。

  • 自分も質問を考えるのに忙しくなってしまった。(←何度か質問のネタを提供していた学生のコメント)

まず一つ目の不安。「正しい英語を教えてあげたいけど、自分の英語力にも自信がない」
こればかりは自分の英語力を伸ばしていくしかない。(私の英語力もまだまだではあるが、)自分の英語力にある程度自信が持てた時にできる授業の広がりのワクワク感をぜひ感じてほしいところだ。

二点目は、「先生にも会話に入ってほしい」という生徒の思い(WANT)と食い違っていることが分かる。今回先生役を務めた学生らも、おそらく生徒側であれば「先生のことも知りたい」という気持ちを持ったであろうトピックだったが、やはり「先生」という役割を意識したからだろうか、「先生が入る」ことが「楽しさを減らす」ことに直結してしまっている。これまでに授業中の友達との楽しい時間に先生に介入されて萎えたという数えきれないほどの経験が彼女達をそういう思考に導いているのかもしれない。
もちろん、仮に模擬授業の中で先生もトピックについて話をしたとしたら、生徒の中から「先生の話を聞くより自分が話す時間がもっと欲しい」という声も上がる可能性はあり、良し悪しを判断することは難しい。

なお、先生の役割が分からなかったという学生に、「(分からなかったなりに)今日はどんな役割を果たそうと思ったの?」と聞いてみると、「微笑み」と返って来て、笑った。木曜5限の最終盤に流石に感じざるを得なかった疲れが少し消えた。次はどんな役割が果たせるか、彼女の今後に期待したい。
(確かに彼女は生徒が話している間、ずっと微笑んでいて、「俺らの英語何言ってるかちゃんと伝わってるんだ」という安心感を与えてくれていたと私は思う)

英語力の高い生徒へのアプローチ

上で見た生徒の振り返りの中に「自分の知ってる英語を言って、クラスメイトに伝わる?」というものがあった。中3の中でも少し語彙・文法の定着が甘い生徒を演じた私に対して、先生から提案された質問(「いつから、きのこの山食べてないの?」)を聞こうとするものの、「"Since when…"とか言っても伝わらんよな」と思ってやめたらしい。
彼女は今回は生徒としてこの問題に悩んだが、おそらく先生側になった時にも、英語力の差のある生徒達を前にして、同じことに悩むだろうと思ったようだ。

授業も最終盤、英語科教育法Iとしてもラスト2回(個人での言語活動作りとその実施)を残すのみというタイミングだったこともあって、私なりの考えを結構ストレートに伝えた。

「英語は非母語話者同士で話すことも多い。相手が自分より英語をよく知らない可能性もある。そういう時に、相手に伝わる言い方を選べることが、本当の英語力の高さだと考えると、クラスの中で英語がよくできる生徒へのアプローチも変わってくると思う」といった内容。

私の考えを言わずに、学生に考えさせても良い問いの一つかなとも思ったが、私の考えを伝えたところで、それをすぐに実践に結びつけられるものでもなく、一足飛びに答えを与えた感じにはならないだろうと判断した。そして恐らくこの疑問を出した学生は、普段から本学の英語の授業や英語科教育法の授業の中で同じような悩みを(言語化してこなかったとしても)抱いてきたのではないかと推察されたこともあり、ここは彼女らの「英語力観」を揺さぶる目的も持って、上記の通り伝えた。

スピーキング活動を打ち上げ花火にしない

この最後の問いや、先生の役割問題も含めて、多くの学生がスピーキングの授業を通してスピーキング力を上げることの難しさを感じたようだった。

実際、一回の授業で数分話したことで明確にスピーキング力が伸びるということはないだろう。そういう意味では、模擬授業の限界というところもある。
しかし、「スピーキングの授業を通してスピーキング力を上げるには?」という疑問はきちんと持って英語科教育法II以降に進んでもらいたい。というのも、スピーキング活動は割と頻繁に単元の最後の「イベント」的な立ち位置に置かれて、「普段は読んだり書いたりばかりだけど、今日は話せて楽しかった」的な感想を生みがちである。(そして同じぐらい、「話すのは難しいと思った」という感想も出てくる)

スピーキング力を伸ばす目的のないスピーキング活動は、得てして単発で終わり、その日だけの特別な時間となり、なんとなく楽しかった記憶やゴチャゴチャと考えて難儀だった記憶として残る。活動がそれなりに盛り上がると、先生も生徒達の笑顔が沢山見れて嬉しいし、「できないなりに一生懸命話していて、良かった」と本気で思う(し、実際それは基本的に良いことだと思う)。
その振る舞いはまるで打ち上げ花火のようで、色々と昂った気持ちの余韻とともに、心の奥底に「結局、この時間って何だったんだろう?」と何かがつっかえる(生徒もいる)。

「スピーキング活動こそ、地味であれ」とでも言いたい,自戒も込めて。

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