神様とキャラクターと、スポーツとeスポーツ


神様とキャラクターは同じ


こんなことを書くと、お怒りになる方がいるかも知れません。しかし、本当に神様を信じている方からすれば私の言葉はただの戯言にしか映らないでしょう。

キャラクターにも色々います。小説や、アニメの中にいるキャラクターもいます。それらは実在はしません。しかし、ドラマの中のキャラクターであればどうでしょうか。これは現実世界に存在しています。アイドルがファンに見せるまさに偶像としてのキャラクターはどうでしょうか。そのキャラクターはフィクションでしょうか。どこからどこまでが実在で、どこからどこまでがフィクションでしょうか。過去の偉人はいかがでしょう?

明確な線引が存在しているような気がして、実はその線引は非常に曖昧です。曖昧でよいのです。グラデーションのように、各々が自らにとっての現実とフィクションを定義しています。線引は各自の中の勝手な定義によるものですから、論理的な実証は不可能です。

・スポーツとeスポーツは同じ


eスポーツは果たしてスポーツであるか、という議論がなされています。私はゲームをあまりしませんが、eスポーツはスポーツであると思っています。ただ同時に危険であるとも感じています。それは、ゲームでは自己成長以外で快楽を与えるシステムを容易に構築することができるためです。これは議論を分ける必要があると私は感じています。快楽を与えるシステムとは主にギャンブル的なシステムです。しかしギャンブルとスポーツも本来切り分けられるものではないかもしれません。

サッカーは確かにスポーツと言ってよいでしょう。将棋や囲碁はどうでしょうか。体を動かさなければスポーツではないのなら、アーチェリーやゴルフなどはどうでしょう。射撃という競技もあります。例えば競馬のジョッキーはスポーツをしている様に見えます。では賭けている人は? ポーカーで対戦している人はスポーツをしているでしょうか。パチンコを打っている人はスポーツをしているのでしょうか。ギャンブル依存症という言葉がありますが「一日中体を動かさないと耐えられない」という人もいます。彼らは依存症ではないのでしょうか。

・否定するメカニズムもほとんど同じ


 
キャラクターやeスポーツを否定するメカニズムはほとんど同じであるように見えます。すなわちそれは「伝統」というメカニズムです。歴史のあるものが偉く、歴史のあるものが正しいという理屈です。新しいものを受け入れている、という人を見ても、新しい枠組みを受け入れている人はあまり多くはありません。古いものは枠組みが出来上がっているため、すでに洗練されているためです。大人はこの「洗練されたもの」こそを素晴らしく、よいものである、と考えます。こうして型の決まった伝統は受け継がれます。

一方で若い人たちは「枠組み」を知らない、あるいは「枠組み」が窮屈で、面白くないものに感じるため、純粋に「楽しいもの」を求めます。それは往々にして新しいものです。神様よりキャラクターのほうがとっつきやすいですし、スポーツよりもゲームのほうが面白いのかもしれません。しかし、大人たちはそんな新しい枠組みに対して眉を潜めます。新しいものの多くは、伝統の中における「洗練」とは真逆の方向性だからです。

当人にしてみれば重要なことかもしれません。しかし多くの人にとってはどうでもいいことです。ですが、さらに言えば、ビジネスチャンスはこのようなところにあると考えています。

いずれにしても、きっと未来の人が歴史の教科書を見たら「昔の人はこんなことで争っていたんだ」と懐かしむことでしょう。

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