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愛してますおじさん

ラズベリーファームでの労働生活が続いている。あまりにも平坦な毎日が続いてるので、刺激を与えようと髪の毛を金色に染めた。
さらに先週のデイオフは、友達と一緒に人気のないビーチで勝手にテントを張りキャンプをした。友人といっても、二人とも年上だったので僕の体育会精神が久々にはたらいた。

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真夜中の全裸ビーチはなかなか気持ち良かった。ストレスが解放される実感があった。体を張って海に2回も飛び込んだのだが、暗いせいで友人からはよく見えなかったそうだ。
これぞオーストラリア。自分が海外に来ていたことを思い出せた。

とは言え、休みというのは1週間に1度あるかないかで、最近は働き詰めでやっている。


ラズベリーピッキング中は、手さえ動かしていれば基本的に何をしても良い。YouTubeを流してもいいし、音楽を聴いていてもいいし、近くの人と喋っていてもいいし、セックスをしてもいい。

先日のこと。黙々とピッキングをしていると、近くからラジオの音声が聞こえてきた。日本語のおじさんの声だ。同じ日本人のピッカーが仕事をしながら聴いているようだ。そのラジオは、よく聞くとずっと同じことを言っていた

「幸せです。感謝してます。愛してます。幸せです。感謝してます。愛してます。しあワセデs」

……

おいおい、怖いわ。

これらのフレーズを延々と繰り返す地獄ループだったのだ。音楽でもそうなのだが、僕はずっと同じものを聞くと頭がおかしくなりそうになり、気分が悪くなる。しかも、幸せ感謝愛の3点セットはヤバい。カオスに拍車がかかる。ピッキングをしながら本当に吐きそうになったのでAirPodsを装着し、最近ハマっているブルーノマーズを再生し、難を逃れた。

だいたい「愛してます」だなんて、そんなに軽く使う言葉じゃねーし!大切な人のために取っておきなさい!

さて、ここからは僕の想像だ。

きっとそのラジオを聴いていた日本人は何かに苦しんでいる。海底から誰かの助けを待っている。そして、救いを求めるかのようにそのおじさんの「言葉」に頼った。

おじさんはおじさんで、そういう精神世界、いわゆるスピリチュアル的なものを生業にしている人なのだろう。ポジティブな言葉を聞いたり口にしたりしていると、運気がやってきますよーと唱えているタイプの人間であることは間違いない。一言で言えば、つまらない人間。すごい人なのだろうけど。

27年の人生で分かったこと。それは「幸せ」はそんなに簡単なものではないということ。

人が本当に苦しんでいる時、実は言葉というのは無力だ。大好きな小説も映画も音楽も、何も自分を助けてはくれない。もちろんこの「愛してますおじさん」も誰かを助けたりはしない。

助けを借りたとしても、結局最後は自分で這い上がってくるしかないのだ。寂しさや苦しさが原因で、誰かに寄りかかったとしても、その椅子の背もたれはいつか壊れる。

ちなみに、僕は強要してくるタイプのヴィーガンやミニマリストの人たちも苦手だ。おそらく彼らも、愛してますおじさんも、本質的には正しいことを言ってるのだと思う。実際に野菜中心の生活をしたり、物を持たない生活をすると良いことがたくさんあるのだろう。
しかし、正論で塗り固められ、ユーモアを失った人間ほど残酷なものはない。やるなら勝手にやってくれ。

何かに失敗したとき、僕は「運気が回ってこなかった」とか「願いや祈りが足りなかった」とか「日頃の行いが悪かった」とか、そんなくだらない言い訳はしない。全て自分の力不足だ。

自己啓発本マニアを読書家とは認めない。君が好きなのは本ではない。「本を読んでいる自分」に酔っているだけだ。

尊敬する人物や、人生の師匠みたいな人は絶対に作らない。違う誰かになろうと思っても、二人の隔たりに苦しむだけだ。自分を愛するしかない。

つまり、ビーチで全裸になった方が、変な宗教や怪しげなおっさんに頼るよりもずっと心が救われると思う。

神頼みをやめた誰かが、自分の力で掌を開く時。
または、本当に大好きな人に「愛してます」と言えた時。全てはそこから始まる。僕と関係のない人はどうなったっていい。悪徳宗教やカルトでも愛してますおじさんでも、なんでもハマればいい。金だけ巻き上げられて、気がつけば一人になっていればいい。でも溺れている友達に対してだけは、そんな救われるような瞬間が訪れるといいなと、ラズベリー畑で思った。

サポートしていただいたお金を使って何かしら体験し、ここに書きたいと思います。