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クリエイターの「妥協」は二種類

僕は四、五回バンドの解散を経験している。

今思うと、男と男はそもそも分かり合えないという真理を学ぶ場所だった。男同士が集まって一つの物事にリスクをとって進むのだ。

「妥協しない人間」がいたら「妥協できる人間」が必要になる。妥協だらけのやつだけでも進まないし、妥協を許さないやつばかりでも進まない。

そしてこの「妥協」という言葉だが、結局は「妥協の質」が争点になってくる。

たとえば「妥協を許さない」にかけましては、そのココロは「製作物を思い通りに仕上げること」なのか「物事を爆速で進めること」なのか、ということだ。

クリエイターの「妥協を許さない」というと細部へのこだわりだと考えがちだが、それだけでもない。

とにかく「作り上げて、ひとに届けて、リアクションをもらうこと中毒」のクリエイターもいる。これが僕だ。

そういう意味では細部へのこだわりは大きくない人種なのだ。
いいかげんなものを作りたくはないが、進まないで滞ってしまう方がジンマシンが出る。

早く、とにかく作ったものを早く知ってほしいし、届けていきたいし、反応してほしい。

これは一般の消費者に対してもそうだし、共に物づくりをしている仲間に対してもそうだ。

「反応がほしい」というプライオリティが一番だ。

今もそうだし、これが噛み合うひとと僕はうまくやっていけることが多い。ただ、同じように急げ、という意味ではない。「噛み合う」というのは補い合うという意味だ。

しかし解散したり、様々な別れを経験した今思うことは「分かり合えないまま進むことはできなかったのだろうか?」という嘆きだ。

「妥協」なのかもしれない。
だけど「分かり合えなくても隣り合って進んでいくことに妥協しない」とも言える。

存続や継続も一つのプロフェッショナルの証だ。もちろんダラダラと続けても仕方ないが、続けることには価値は確実にあるのだ。

ただ一点、「居場所」というのをジャッジする基準がある。

「そこにずーっと居て自分がダメになるなら、居やすい場所というより怠けやすい場所だよ」という判断基準だ。

怠けも必要だけど、まぁ怠け続けると太る。

結局、家族も恋人もバンドも「分かり合える前提」で進むとわりとうまくいかないのかもしれない。

「分かり合えないまま進んでみるか」ぐらいでちょうどいい。やがて時が来て、すんなり終わるのだ。

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