アドバイスの取り扱い方

アドバイスを食らう。生きていると。未熟だから助言されるわけではない。社会に属しているから食らうのだ。

僕たちはアドバイスから逃れられない。どうあっても助言される。されてしまう。ならば上手いこと刺されたい。食らうにしても「食らい方」が大切だ。

何事も受け手の力量で成果は変わる。後々のクオリティが激変する。

分かってはいたが、痛感した一年だった。

書籍やwebに書いてある「自分を強くする方法」はアドバイスではない。

これらはなるべく多くの人に当てはまるようデザインされている。理論体系化されているとも言える。

オマケに商品、出版物としての品質としても高めないとならない。一人一人のことまで構っていられない。時折、僕やあなたの読めない漢字も使われている。

アドバイスはそうではない。一人一人に合わせて放たれたものだ。自分の短所がゴリゴリと浮き彫りにされるサウンドを聞くのは時に耳に痛い。

そんなアドバイス、説教はムカつく側面もあるが、「自分の行動に対しての他者のリアクション」であることは揺るぎない。

自らに欠けているものや、伸ばせばさらに強い武器に変わるヒントがたくさん隠れている。

だけど僕はアドバイスされることが昔から大嫌いだった。今でも抵抗が強いし、「言いやすいタイプの人間」ではない自覚もある。

加えて僕は何か言われたとき、「それが正解か?」と考えてばかりだった。これは聞く姿勢が悪いとも言える。

もちろん「そのまま聞かない」は悪いことだけでもない。鵜呑みにしまくって騙されたり、搾取される苦しみを避けられる。

だけどその分、マイナスもある。

自責思考の弱体化と成長曲線の低下だ。「なんでもかんでもまわりのせいにして伸びないやつ」が誕生する。やはり素直じゃない性格には相応のデメリットがつきまとうのだ。「精神年齢が幼くなる」という致命的欠陥を抱えて生きていくのはじわじわ苦しくなる。

そんな僕に「大事なのは言われた内容が何に当てはまるか考えることだろうが!」と言ってくれたひとがいる。十年ほど前の話だ。

頭を鈍器でカチ割られたような衝撃だった。脳みそがダダ漏れになって口が半開きになった。

「言いづらいやつ」である馬鹿な僕に正面から説教をお見舞いしてくれる数少ないひとだった。

何かを見聞きしたとき、疑ってばかりだと正解に辿りつけないことがある。「本当かな?」は時に邪魔になる。いったん納得できないことでもやる。やってから考える。

「この情報、助言はどんなケースに当てはまるか」と積極的に取り組まないと何にもならない。

アドバイスは結局、当人のやる気次第だ。その気合いのある無しは態度に出る。必死さに表れる。斜に構えた姿勢を相手にするほど世間はヒマではない。

頭を割ってくれたひとと僕は今年同い年になった。

「あんなパワーのある言葉の吐ける人物になっただろうか、俺」と思うと、軽く落ち込む。

反省連発という一年だった。寒暖差は生きる気を一気に奪い取る。今日はスタジオに22:30まで入る。



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