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二元論的女性観

最近マシになったがどうにも「女の子」が苦手だ。変に意識してしまうのだ。

ことに一対一で会話をしなければいけないその相手が女性であると、それを考えたとたんに脈搏が数をうちはじめ、唇が乾き、アドレナリンが大量に放出されだす。

ステージにあがった一曲目に、歌詞を全部忘れてしまっている自分に気づいた、ちょうどああいう状態になる。

これはおそらく、十二から二十歳までのいちばん魂の柔らかな季節を、酒に逃げてしまったせいだろう。

ごつごつとした独りきりの自分の との会話に時間を使ったせいで、女の子という存在が、柔らかな頰や丸い肩を持った実在としてではなく、まさしく「女の子」という文字の持つ抽象性、観念としてしか頭の中に入っていない。

つまりデータ不足なのだ。

やさしい女の子、意地悪な女の子、こすっからい女の子、かしこい女の子、母性的な女の子、ひょうきんな女の子、めめしい女の子、強い、弱い、優しい、ズルイ。

そういった数多の女の子をサンプルに、帰納的にあるがままの女の子を理解するという訓練が全くスッポぬけている。

こうした貧弱な想像力からすると、「聖女」と「娼婦」という二極化的なものの考えしかできなくなる。

どうしようもない二元論的女性観だ。

これのせいで未だに男と話すよりは、女の子と話す方が面白い。

男の考えている内容なんてどっちが上か、金があるか、目立っているか、フォロワー数か程度だ。こんなことにアドレナリンは一切出ない。「トイレ行ってきます」と言ったきり、そのまま帰ってしまう。

現実の女の子には聖女も娼婦もいない。僕たち男だって聖人も悪人もいないのと同様だ。仲間には優しいし、敵は踏み潰すはずだ。

ところがバンドなんかを始めると「女の子の国」にしょっちゅう出入りできてしまうやつらがいる。

たいていが姉がいたり、手足が長かったりと、先天的な条件を満たしているのだ。

彼らは芦屋のセガレだったり、いつもセンスの良い服装に身を包み、育ちの良さを溢れさせて歩いている。

優しそうな顔つきと不自由ない小遣い、流行りの音楽に関しては右に出るものがいない。それに引っ付く金魚のフンも数人いたが、やはり天才には敵わないものだ。

少なくともフン化していない自分を誇りに生きていた。大切なのは疎外とはみ出しをブランドにすることだ。何にもならなかったが、何にもならないまま燃え尽きれば良いのだ。

しかしそれにも増して、僕に欠如していたのは「軽さ」と「度胸」ではなかっただろうか。

知り合った女の子にほいほいメールを送れるその「軽さ」が決定的な差に繋がった。この「軽さ」はまさしく天性であって、後天性の「軽さ」にはギトギトした毒性が見え隠れするのだ。

その結果、やり場のない僕の怒りはNIRVANAに向かい、ますます暗くなっていった。

そして彼らセンスの良いやつらへの怨念はどんどん深くなっていった。

深くなったきり、どこに着地したのかは分からないが、ひとまずある程度の年齢になってまで突っ伏している。


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