夢を諦めた人のエピローグを見てきた

子供の頃、気怠い大人が好きだった。

近所には仕事もせずふらついていた近所の兄ちゃん(32)や上京をやめた姉ちゃん(24)がいた。

小学四年生になったあたりだった。「先生の言うことを鵜呑みにしてはいけない」と肌で感じたり、学校が嫌いになり始めていた。
マセていたとも言えるし、僕なりに「なんか違う気がする」と自我が芽生えた年齢なのだとも思う。

フラフラしている大人たちは、まるで大人になり損ねた成人同一性障害者みたいだった。そして鬱屈していた僕にとってはじつに魅力的だった。さらに僕は彼らにやたらと可愛がられた。

ある日、上京をやめた姉ちゃん(24)のアパートに呼んでもらった。脱ぎっぱなしの服や、灰皿に山盛りになったタバコが今にも崩れ落ちそうだった。

「吸ってみ」と渡された細長いタバコをつまんで、ライターの火を当てたがまったく点かなかった。

僕は「火、点かへんで」と姉ちゃんに言った。
姉ちゃんは「吸いながらやないとあかんねん」とタバコをひったくり、くわえて点火し、煙の立ち上るタバコを渡してくれた。吸い込むと想像よりも爽やかな空気が口に入ってきた。

カーテンは理科室にあるような遮光性のものだった。
姉ちゃんは「あたし、昼夜逆転するときもあるからな。反転ちゃうで?完全に逆転さすねん」と言っていた。

その不規則、不健康な暮らしがひどくかっこよく見えた。子どもの世界は、昼起きて夜寝るのが当たり前だけど、大人になると自分の意思でそれを変えることができるのだという事実に興奮を覚えた。

実際、カーテンを閉めると部屋は真っ暗になり、昼と夜が入れ替わった。自分の家や学校には装備されていない「夜を作る」という機能だった。

姉ちゃんの友人らともよく話した。部屋には似たような人々が出入りしていた。フリーターなのかニートなのかプーなのか分からないが、いわゆる正社員的なひととはかけ離れた連中が多かった。

話を聞くと、音楽、役者、芸人、作家などを夢半ばで諦めた者ばかりだった。何か大きなものを諦めたひとには特有の気怠さがある。アンニュイで、温くて、じつに居心地が良かった。

学校では「夢、希望」をベースに物事を語られることが多い。僕たち十歳の子どもに語る話なのだから当然なのかもしれないし、それでいい。将来何になりたい、夢は何か、大人になったら。そんなものばかりだった。

でも僕にはその「夢、希望」に焼かれたひとたちの話のほうが面白かった。

「夢なんて叶わないかもしれないし、実際にほぼ叶わない」という現実は決してむごたらしくないのだと知った。みんな何にも絶望していなかったし、夢を諦めたこと、追いかけたことへの後悔も彼らから感じられなかった。

ただ、「ここからの人生は蛇足だ」という雰囲気は瞳からちゃんと伺えた。「命を賭けてやったことがあり、それが叶わず、なおかつ間抜けに生き残ってしまった」という事実は残酷でもあるがリアリティがあった。

夢、希望は叶わない。将来も訪れない。でもそんなことは関係なく、人生は続く。叶っても叶わなくても続いてしまう。そしてそのエピローグのほうが、『夢を追う』という本編の何倍も長い。

気怠い空気が遮光カーテンの隙間の埃と一緒に浮遊していた。タバコの煙はゆらゆらと天井に吸い込まれていた。とことん気怠かった。

一度大きなものを追いかけないと、何かに敗れないと、諦めないと、あの気怠さが人格に内在しない。

面白いことに「学校の先生」という人種は、あの気怠さをチリ一つも全く持ち合わせていない。何も諦めず、何にも敗れたことがないのだろう。叶えようとした経験がないのだから、当然なのかもしれない。

人生なんて本編も蛇足も大した変わりは無い。

「夢が叶わなかったら死ぬ」という考え方がある。僕はわりとそう思っているほうだ。でもいちいち死ぬほどの哲学的意味なんて人生には無い。

気怠く、日々をくゆらせていけばそれでいい。その時の流れの遅さに耐えられなければ、酒でも飲んでひっくり返っていればいいのだ。



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