寂しさを殺す方法!

人間の本質なんて今の昔も分からないけれど、「世の中には余裕のある人間」「余裕の無い人間」がいるなぁと思う。

面接をやたらとやった一年だったからかもしれない。初対面が連続した。

もちろん、評価しているわけではない。そんなに偉くはない。

だから「余裕の有無」なんて、どちらでも良いのだ。みんな違ってみんな良い。「余裕のある人間」と「余裕の無い人間」には、それぞれの一長一短があるだけだ。

「余裕のある人間」は「切羽詰まっていない、動じなさ」というメリットもあるけれど、「余裕しゃくしゃく」になってしまって、成長曲線がゆるすぎるときがある。

「余裕の無い人間」は「必死の爆発力」というメリットもあるけれど、「結果を急ぎ過ぎて、破滅的」という危うさがある。

もちろんすべてがそんな簡単な話ではないが、人間性の構築において「余裕」の占める割合は多い。そう思っている。

余裕はそのひとの心に宿る「恐怖の総量」を表しているからだ。恐怖から逃れるために、ほとんどのひとは行動を変えるではないか。

僕自身は「余裕無き者」として生きてきた。恐怖におののいてきたのだ。

これもまた近頃感じたのだが、それなりに人間を長くやっていると、自分の特性と逆方向の要素が足されていくみたいだ。

すると、メリットが強まって、短所が少し穏やかになっていく。人間として完成はしなくともレーダーチャートが、少しずつ整っていく。

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僕は「余裕無き者」だったので、後天的に余裕を加えてきた。
いつのまにか「余裕を持てるぐらいの心身のコンディション作り」をずいぶん優先するようになっている。チャートが丸に近づいていくのだ。

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「結果と理想のためなら、健康をブッ壊そうが構わない」を地でやってきた二十代を思うと、そこそこバランスが良くなったものだ。

僕のまわりにいるひとたちも、過ごしやすくなったのではなかろうか。たぶん。前よりは。

そもそも数年前にいたほとんどのひとたちが、もう僕の前からいなくなった。

思い返すと、まわりからひとが消える恐怖に、僕は突き動かされてきたのかもしれない。孤独になることが、怖くて仕方なかったようにも思う。

だが、いなくなると、案外なんともないものだ。

「寂しさを感じないか?」と問われると、深層心理は分からないが、忙しくしていれば感じにくい。

少なくとも気にしているひまがないぐらい、日々を多忙にしてしまえば寂しさは和らぐ。

こう書いていると、やはりまだまだ「余裕無き者」であることは、ゆるぎないのだと痛感する。せわしなく生きて、一気に死にたいものである。


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