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ひと言葉でもききなさい

― このカレンダー、なして25日までなんだべ?

 恥ずかしながら「アドベント」という言葉すら知らなかった私ですが、本日12月19日はアイヌ語のフィールドワークでお世話になってきた調査協力者の吉村さんのお誕生日なので、これも何かのご縁と思い、吉村さんとの調査について少し書いてみたいと思います。

アイヌ語について

 アイヌ語は、日本列島の北部および樺太や千島列島に分布してきた言語です。地域によって多くの方言に分かれますが、これまでに周辺の言語との系統的な関係は認められず、日本語とも大きく異なる言語です。
 アイヌ語は深刻な危機言語としても知られています。近代以降の同地域における和人(日本文化を背景とする人々)の増加や日本社会への同化政策などによる否定、差別を背景に、アイヌ語の世代間継承は急速に困難となっていきました。日本語を中心とした社会へ組み込まれる中で、アイヌ語のモノリンガル世代は昭和期までに最後を迎え、また、アイヌ語と日本語の二言語併用の言語環境で育ち、家庭内などで自然にアイヌ語を身につけた人(以後、アイヌ語話者)も、すでに高齢世代でごくわずかという現状です。より若い世代は基本的に日本語のみを母語としており、アイヌ語の継承が世代間で断絶的である点で深刻な危機言語といえます。
 ただし、アイヌ民族を取り巻く社会の変化やアイヌ語の学習機会、コンテンツの拡充を背景に、アイヌ民族としてのアイデンティティをもって生きる若年層を中心に第二言語として積極的にアイヌ語を学ぶ人も増えてきています。

アイヌ語鵡川方言のフィールドワーク

 私は2013年から、むかわ町に通ってアイヌ語鵡川方言のフィールドワークを続けてきました。むかわ町は北海道の胆振東部に位置し、その町名でもある鵡川の中下流域を占める町です。河口ではシシャモの水揚げが有名で、鵡川地区(旧鵡川町)の市街地では秋になるとシシャモのすだれ干しをする店が軒を連ねます。ちなみに、シシャモという日本語は、アイヌ語のスサㇺに由来します。

鵡川市街のシシャモのすだれ干し

 この鵡川の流域は、古くからアイヌ民族が多くのコタン(集落)を形成して居住し、豊かな文化を育んできました。現在も、むかわアイヌ協会や鵡川アイヌ文化伝承保存会などが中心となり、伝統的な儀礼や文化の実践・継承が行われ、道内においてもアイヌ文化・アイヌ語関連の取り組みに触れやすい地域のひとつといえます。
 私のフィールドワークの調査協力者は、鵡川のチン(現むかわ町汐見)で生まれ育ち、同地区に在住であった吉村冬子さん(1926年生まれ)です。吉村さんは、アイヌ語と日本語のバイリンガルである両親と17歳まで暮らし、両親のアイヌ語や、特に母親の交友関係の中でアイヌ語に深く接して育ったために、アイヌ語を自然と習得したということです。
 ただし、アイヌ語に対する時代的・社会的な抑圧のために、吉村さん自身は日常的にアイヌ語を話すことはなかったそうで、両親や周囲の人とは主に日本語で会話をしていたとのことです。さらに、青年期以降の暮らしは次第に日本語のみの言語環境へとなっていったそうです。
 このように、吉村さんは長年にわたりアイヌ語を積極的に使用したり内省する環境になく、バイリンガルとしての日本語への多少の偏重も見受けられますが、一方で継承語(母語)としてのアイヌ語の深い知識と能力を有していることは調査を通じて明白でした。

母語の底力

 例えば、吉村さんのアイヌ語のアクセントは正確そのものでした。アイヌ語のアクセントは、第一音節の音節構造によってある程度は予測可能なのですが、例外的なアクセントも多くあります。また、人称による語形変化に伴うアクセント位置の変更など複雑な規則も多く、第二言語としての学習では習得が容易ではない点ともいえます。しかし、吉村さんのアイヌ語は、常にこれらのアクセントが一定して正確であり、例外的なアクセントについても周辺のアイヌ語の記述と一致しています。聞き取り調査においても、アクセントの付与で迷ったり、揺れたりすることはまずなく、非常に安定した言語知識として獲得されていることがうかがわれます。
 また、アイヌ語と日本語は音韻体系が異なるのですが、ここでも興味深いことが観察されます。例えば、吉村さんは日本語の中の外来語「バス」(乗合自動車のバス)を、日本語の談話の中では一定して「バス」[basɯ̥]と発音するのですが、コードスイッチングも含めてアイヌ語の談話の中で借用する際には「パス」[pasu]と発音しています。アイヌ語は有声音と無声音の音韻的な対立がなく、語頭においては有声音ではなく無声音で発音されるという特徴を持つため、日本語の外来語「バス」[basɯ̥]がアイヌ語の中で「パス」[pasu]と発音されるのは自然なことといえます。また、語末の母音/u/も、日本語の「バス」[basɯ̥]においては無声化しているのに対して、アイヌ語の「パス」[pasu]では/u/が円唇化して無声化を伴わない発音となっています。これもまた、アイヌ語の音韻の中で発音された母音/u/として自然といえます。こにょうな日本語とアイヌ語の音韻体系を自由に行き来するコードスイッチングもまた、吉村さんがバイリンガルであることを強く印象づけます。
 語彙や表現についても、調査を重ねるに従って言語知識の再活性化がみられ、一度は思い出せなかった項目でも、何週間、何ヶ月かして再び質問すると難なく回答が得られるということも増えていきました。
 調査の中でも多くの文例が得られるようになったある日、試みに、吉村さんが日本語でたびたび語る昔の思い出をアイヌ語で聞かせてほしいとお願いしてみました。すると吉村さんは、日本語もところどころ混ざるよと断りつつも、アイヌ語で語り始めました。

kina ku=ø=kar kor k=an wa
キナ クカㇻ コㇿ カン ワ
山菜 1SG.SBJ=3.OBJ=採る ながら 1SG.SBJ=いる て 

ku=ø=kor seta ku=ø=kar kina ø=ø=otetterke wa
クコㇿ セタ クカㇻ キナ オテッテㇾケ ワ
1SG.SBJ=3.OBJ=持つ 犬 1SG.SBJ=3.OBJ=採る 山菜 3SG.SBJ=3.OBJ=踏む て

ku=iruska kor k=an akusu
クイルㇱカ コㇿ カナクス
1SG.SBJ=怒る ながら 1SG.SBJ=いる と

oyak un ø=arpa wa ...
オヤクン アㇻパ ワ・・・
よそ へ 3SG.SBJ=行く て …

(私が山菜を採っていて、私の犬が私の採った山菜を何度も踏みつけるので私が怒っていたところ、犬がよそへ行って、・・・)

 あっという間に5分におよぶアイヌ語での談話が得られていました。ここで示したのは、その冒頭にすぎませんが、自然な文脈を備えた貴重な談話データといえます。談話データが得られると、そのテキストからさらに語彙的、文法的な聞き取り調査へと広がっていきますし、新たな興味深い問いも尽きることなく生じます。聞き取り調査、談話の収集、聞き取り調査、談話の収集・・・、毎週末のように吉村さんのお宅へ通っては膝を突き合わせての調査の日々。2013年6月にはじまったフィールドワークも、気が付くと5年の歳月が過ぎ、調査も160回を超えていました。

塞翁が馬

 2018年の6月末、その日は165回目の調査でした。朝からいつものとおり聞き取り調査や談話の収集などを行っていると、珍しいことに、吉村さんと一緒に記念撮影をすることになりました。いつもなら「時間いたましい、ひと言葉でもききなさい」(時間がもったいないから、そんなことよりアイヌ語をひと言葉でも多くききなさい)と吉村さんに調査を促されるのですが、その日は、私の何気ない「一緒に写真とらないかい?」というもちかけに「悪くない」と応じてくださったのです。お気に入りの服に着替えた吉村さんのお写真、そして私とのツーショット。何かの記念というわけでもなかったのですが、私もかねてより調査風景ではなく、吉村さんとのツーショットを撮りたいと思っていたこともあり、思いがけないよい機会となりました。「今度くるとき写真大きく現像して持ってくるから」と、7月の調査の約束をして、その日も夕方まで膝を突き合わせてアイヌ語をご教示いただきました。
 7月になり、吉村さんのご家族にも次回の調査についてお伝えしておこうとお電話したところ、数日前に吉村さんがベッドから落ちて膝を痛めてしまい、町の病院に入院されているという衝撃の知らせが伝えられました。骨折のような怪我にみまわれ、しばらくは車いす生活となることから、もう今までのような自宅での一人暮らしはできないだろうとのことでした。すぐにお見舞いに行くと、怪我で気落ちされてはいたものの現像して持って行った前回の写真を手に喜ばれ、いつものように少しでもなにか聞きなさいと調査を促されるのでした。家でなくても調査はできると促され、それからはお見舞いかたがた短時間でも、ひと言葉でも調査を続けていくことになりました。吉村さんのアイヌ語の伝承、保存に対するひた向きな姿勢には、本当に頭が下がるばかりです。
 こうして病院へのお見舞い+短い聞き取り調査が何度か続き、季節は秋を迎えていました。吉村さんは自力での歩行は困難なものの骨接ぎの治療はおわっていたため、入院の最大期限を迎える9月の頭には少し離れた隣町の介護施設へ移られるということになりました。落ち着いたら施設のほうへもお見舞いに行って、また少しずつでも調査がでもできればなと思っていた矢先の9月6日の未明、あの胆振東部地震が発生しました。
 震源はむかわ町の市街にほど近く、その被害は甚大なものでした。幸いにして吉村さんやご家族の皆さんは無事でしたが、地震発生の数日後に吉村さんのご家族と合流してお宅へうかがうと、そこにはまさに激震の惨状が広がっていました。
 いつも吉村さんと膝を突き合わせて調査をしていた居間は、家財という家財がすべてふっとんで倒れ込み、足の踏み場もない状態です。もしも調査中にこの地震が来ていたら・・・と想像するだけでぞっとします。また、吉村さんの寝室も家財がすべて倒れ込み、もしもあの夜、吉村さんが一人でこの家にいたらと思うと・・・、考えるのもおそろしいことです。
 ベッドから落ちて入院されたときは、なんという不運だろうかとばかり思っていましたが、そのために町の新しい病院にいたおかげで自宅での被災を免れたというのは全くの不幸中の幸いでした。さらに、震災がなければその日のうちにでも移る予定だった隣町の介護施設は、激震で甚大な被害を受けたとのことで、これもまた1日違いで難を逃れたことになります。その後は、鵡川にほど近い新しくできた施設に無事に移ることとなり、お見舞いがてら調査を続けることができました。
 吉村さんの継承語(母語)としてのアイヌ語の深い知識と能力を前に、調査が尽きることはありません。長年にわたり深いご理解とご協力を賜ってきた吉村さんとご家族の皆さまには、感謝の念に堪えません。

昼ごはんの支度の時間も惜しんでマイクに向かう吉村さん

 そのような調査の日々もコロナ禍ですっかり中断されてしまいました。コロナ禍の一日も早い終息と再会の日を祈るばかりです。昨年の誕生日も、今年の誕生日も、お会いしてお祝いできなかったことは残念でなりませんが、いつまでもお元気でいてください。お誕生日をおめでとうございます。



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