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聖徳太子展に行ってきました(レポ)


こんにちは、とらつぐみです。

今回は、大阪市立美術館の特別展「聖徳太子 日出づる処の天子」に行ってきたので、その感想を綴ろうと思います。

↑大阪市立美術館のHP。この展覧会は今月24日までなので行かれる方はお早めに。

この記事は、展示物の目録と音声ガイド(声優の鳥海浩輔さんが解説してくれる)、館内でやっていた四天王寺の僧侶の方の「絵解き」をもとに書いています。


聖徳太子絵伝:仏教と聖徳太子


聖徳太子は飛鳥時代を生きた人物で、本名は厩戸王(聖徳太子は死後つけられたおくり名)。用明天皇の皇子で、592年に即位した女帝、推古天皇の摂政となる一方で、自身は天皇として即位はしませんでした。

冠位十二階や十七条憲法の制定、小野妹子ら遣隋使の派遣など、政治家としての業績がよく知られています。

今回の展覧会の展示物は、鎌倉時代や室町時代、古いものだと平安時代のものが多かったのですが、その時代の「聖徳太子」像は、私たちのイメージとは少し異なるかもしれません。

例えば聖徳太子の生涯を何枚もの障子や掛け軸に描いた「聖徳太子絵伝」を見てみると、聖徳太子の超人的なエピソード、仏教との深いつながりを強調するエピソードが多く描かれていました。

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↑美術館入り口にあったパネル。緋色の袴を着て合掌している幼少の聖徳太子。「2歳の時、仏の入滅日に西を向いて膝立ちになり、『南無仏』と唱えた」というエピソードをもとにしている。

僧侶の方が解説してくださった四天王寺障子絵伝(奈良時代製作)では、幼少の聖徳太子が桃の花(=華やかだが儚い生命)よりも松の青葉(=いつまでも残る仏の教え)を誉める、といったエピソードが描かれていました。

また、伝来した仏教の普及をめぐり、崇仏派の蘇我氏と排仏派の物部氏との戦に、聖徳太子が蘇我氏側で参加したことが大きく取り上げられていました(その際戦勝を祈願して彫った四天王像が、四天王寺の由来だそうです)。

私には「聖徳太子=戦」というイメージがあまりなく、この取り上げ方は少し意外でした。このエピソードが大きく取り上げられているということは、「聖徳太子がいなければ、仏教は普及しなかった」という製作者のメッセージがうかがえます。

このようなメッセージはほかの絵画や彫刻などで繰り返し見られ、文字通り「聖人」としての聖徳太子像は仏教と結びつけられながら展開していくことが分かります。



二つの聖徳太子像


展覧会の前半、中世から近世にかけての作品をじっくり見ると、仏教の成立に寄与した聖人としての聖徳太子像にも、色々バリエーションがあることがわかります。

代表的なもののうち一つは、「幼い姿」で描かれた聖徳太子像です。先述した緋色袴姿以外に多かったのが、「角髪みずら」と呼ばれる結んだ髪を両耳の上に垂らした髪型の姿です。

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↑特別展のチケットに使われている絵は、角髪姿の聖徳太子像。笏と柄香炉(持ち手のついた香炉)を持っている。

幼少期に、父親である用明天皇をつきっきりで看病したというエピソードを表した絵画や像がもとになっている一方、成人した聖徳太子の表現にも使われています。

この幼い姿は、親孝行のシンボル以外にも、観音像との同一性を示す(如意輪観音と同一視されていたそうです)という意味があり、仏教的な意味合いも強いものだそうです。

そしてもう一つは、成人して摂政になった後、烏帽子に笏を持った姿です。私たちがイメージする聖徳太子も、これが多いのではないでしょうか。

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↑四天王寺の絵伝の複写。中央右に摂政姿の聖徳太子像がある。僧侶の方の絵解きの前に撮影可能と言われたものです。

面白いのは、この姿でも聖徳太子は様々な仏教美術に登場している点です。名だたる僧侶や阿羅漢たちの中に、緋色の衣に笏を持った姿で描かれていたりします。「仏教とのつながり」がピンときていなかった私には、少し新鮮に感じました。

一方で作品を作った人々にとっては、聖徳太子は容易に仏教と結びつけられる存在だったのでしょう。聖徳太子を表現する絵画が様々な仏教芸術の表現を取り入れて発展してきたことも、その証拠でしょう。

このように、数々の聖徳太子を描いた絵画や像を通して、当時の人々が思う聖徳太子像、それも現代と比べても仏教の考えが根強い中での聖徳太子のイメージに思いを馳せられるのが、この展覧会の面白さではないかと思います。



歴史と信仰のはざまで


展覧会の終盤には、近代以降の聖徳太子像の変遷についても紹介されていました。

明治時代になると、「聖徳太子=仏教」というイメージよりも、冠位十二階や十七条憲法の制定など政治家としての面が注目され、「日本という国の礎を築いた人」という、今のイメージに近い聖徳太子像が形成されます。

展覧会ではそこまで触れられてませんでしたが、イメージの転換には仏教の地位低下や、天皇中心主義的なイデオロギーと「皇族であり政治家」という聖徳太子像がマッチしたことがあるのではないでしょうか。

そしてその新しいイメージのもとでも聖徳太子の人気は続き、現代の私たちも「聖徳太子」を教科書や、様々なメディアで知ることとなったのでしょう。

↑聖徳太子は日本銀行券に最も多く登場した人物でもある。日銀HP。


ところで、私が高校時代に使っていた日本史の教科書の中の飛鳥時代についての記述を見てみると、

国内では大臣蘇我馬子が587年に大連の物部守屋を滅ぼし、(中略)敏達天皇の后であった推古天皇が新たに即位し、国際的緊張の中蘇我馬子や推古天皇の甥の厩戸王(聖徳太子)が協力して国家組織の形成を進めた。(山川出版社 詳説日本史 2016年発行)

とあります。「厩戸王」の方が太字で書かれ、「聖徳太子」の名はカッコで添えられ、扱いも随分あっさりしています。近年の学説だと聖徳太子は実在していたかも疑われているため、このような記述になっているのでしょう。

しかし、例え史実として存在するか怪しいからといって、聖徳太子がこのように「信仰」されてきた事実がなくなることはない、と私は思います。

展示物の中にあった鎌倉時代に作られた、厨子に入った大きめの聖徳太子像。像には袴と肌着が彫り込まれている上に、本物の衣が着せられ、髪の毛(!?)が植えられていました。

(まるで生きた聖徳太子がそこにいるように、という趣向なのですが、現代のオタクでもそこまではしないな……と思いました。)

聖徳太子信仰とそれが作り出した作品は、仏教の影響やその当時の時代背景を強く刻印しながらも、いち聖人、いち歴史的人物を超えた「聖徳太子」への特別な思い入れを、見る人に感じさせます

実際に作品の数々に触れて、あなたの知らない「聖徳太子」像を感じてみてはいかがでしょうか。



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展示物の中には、山岸涼子先生の漫画、『日出処の天子』の原画もありました。機会があれば読んでみたいです。(とらつぐみ・鵺)