第一回 トーナメント審査過程の記録

 AブロックはA-1ひろぽんとA-2サイトウコンで競い合った。トーナメント順はクジで決めたわけだが、ひろぽんの「全く何もしない」パフォーマンスが全パフォーマンスの最初に位置したことはイベント全体にとって良い効果があったと感じる。彼ははにかみながら出てきて、ただ立っていた。「ただ立っているをやる」のではなく、「ただ立っていた」。それが面白かった。明確な中心を持つのに、中心(パフォーマー)と周り(観客)に差がなくてフラット、そんな空間が生まれていたと思う。僕と目が合ったときの表情は、ばつが悪そうな、悪戯をした子供のような顔だった。彼が燃やした焚火が横で燃えていて、世話をする人のいなくなったその炎は大きくなっていき僕は少しヒヤヒヤした。お客さんも、これから起こっていくトーナメントのバトルの始まりに寄せる期待感が強く、豊かな情報の行きかっていた時空間だったと思う。A-2サイトウコンはゆっくりと右腕を回すところから始め、その右腕は次第に早くなりぐるぐるぐるぐると本人に出来る限りの最高速度に達したと思われる。僕はバスケ部のときに冬場のウォームアップで指先に血を集めるために同じような動きをしたのを思い出した。彼女の指先にも血がかなり集まっているのだろう。その動きは側転につながった。何回も執拗に側転をする。その軌跡が、アクティングエリアにまた円を描く。回転が回転をつくっている。次に、床に崩れ後転のような動きになった。動きによって自分で制御しきれないものを生み出し、それは自己フィードバックを経て次の動きにつながる、おそらくそんなことが起こっているのだろう。二つのパフォーマンスは、「意味と無意味のバランスがどうなっているか」という点で戦うことができるんじゃないかと思った。で、戦った時にひろぽんの「ただ立っているだけ」が勝った。真ん中に立っている、という強い意味。そしてそれを取り巻く無限の無意味。無意味の空間に大小さまざまな情報が乗っかる。その豊かさをもって、ひろぽんの勝ちとした。サイトウコンのパフォーマンスは、意味/無意味という軸を当てはめたときにそれは彼女の内側に当てはまるんだろう、と思った。それだってもちろん豊かだ。しかし焚火があったり、一発目のパフォーマンスを見る観客の視線があったり、情報のやりとりを「外」につくるひろぽんが勝った。

 BブロックはB-1たくみちゃん、B-2Takuya Watanabe の戦いとなった。たくみちゃんとは言うまでもなく筆者のことだ。「たくみちゃん杯を審査する身体」を踊る、というコンセプトだった。コンクリートの床、風、新宿の夜景、焚火、そんなこんなを色々と感じてトランスフォーめいそうをした。(「トランスフォーめいそう」という言葉、最近あまり使ってないけど僕の追及しているインプロの総称です)。どんな風になったかあんまり記憶がない… ひろぽんの「ただ立ってるだけ」、サイトウコンの「ぐるぐるまわる右腕」、ウィンドミル、擦れ合う礫、そんなイメージたち。Takuya WatanabeはまずiPhoneから小さい音量で音楽を出す。音楽というよりも微かにリズムが聴こえてくる、という感じのミニマルな音。微かにノッているお客さんもいた。コンクリートの真ん中に胡坐をかき枯葉を両手で砕く。司会用のマイクを使い、iPhone・枯葉をはじめ色んな所からの音を拾う。焚火の燠にマイクを近づけたときは、壊れやしないかと少しヒヤヒヤした。審査は難航した。自分が出てたからだと思う。Takuya Watanabeの使った枯葉が、風に吹かれ、コンクリートの上をサラサラと移動している。そんな様子について言葉にすることから、審査は始まった。結局審査時間の3分を使い切ってしまったが最後には「たくみちゃんの勝ち」という結論を出した。3分で辿り着いたその根拠は、マイクで「拾う」こと/インプロで「拾う」こと、その二者で比べたときに何を拾うかの範囲がより大きい方を勝ちとしたことだ。その言い方は、ただのレトリックかもしれないが。

 CブロックはC-1武本拓也、C-2エキスパンダー☆ユミ、C-3山本悠。決勝に進んでもらい決勝でも見たかったのは武本拓也さんだった。4分という短い時間になってしまった申し訳なさ、があったけどそんなことを感じさせないパフォーマンスであった。ゆっくりと歩くけれども結構、歩いていることが分かった。なにより、「訓練されている」ということがはっきりと分かる身体である。目線はぶれることなく遠くを見据えている。その、目線を固定している顔(の輪郭)、歩くという動作に付随して動く手、体幹のねじれ。ライブアートはLiveであるがゆえの、「この瞬間にどこを見るか」という観客の視線の自由がある。その快楽を、とても強く感じた。しかし、エキスパンダー☆ユミさんのパフォーマンスの持つ、強烈な意味のハーモニーを、勝ちとせざるを得ない。(評価軸が全く交わらない、という現象が起きてしまっている… 予測していたことだが)。エキスパンダー☆ユミのパフォーマンスは、「乳房再建中」というタスキをかけてポップな印象のカラオケを流し、歌う。その歌詞には「キャンサーあなたをやっつける(不詳です)」などの言葉があったと記憶している。意味が、強すぎる。審査をするにおいて、これを見過ごしてはいけないんじゃないか、という気持ちにさせられた、と言ったらいいか。だから、勝ってしまった。山本悠はフリービールのパフォーマンスだった。新宿の夜景とフリービールの乾杯は美しかった。審査のときは、「ビールを飲むには寒い」などと言ってしまった。それはほんとのことであるが、本質ではないのでお茶を濁してしまったかもしれない。最初に一つ作ったフリービールをお客さんに渡し、自分はもう一つ取りに行く。その間は完全に場がうっちゃられる。そういう場が生まれたのはトーナメント全体を通してこのタイミングだけであり、それはなにか興味深い瞬間だった。

 DブロックはD-1山山山、D-2ひらのさりあ、D-3うらあやか、D-4硬軟。19時に間に合わないエントリー者がこのブロックに入るので、必然的に4人で争うことになってしまう。山山山は当初、二名で出場の予定であったのだが事情によりもう一人の参加が不可能になってしまったのである。だが敢えてキャンセルにはせずに、二名で行うプランをたくみちゃん一人でもやることはできないかと挑戦をした。できなかった。山山山でパフォーマンスするときの演技体に「なる」ということを試みた。最初の2シーンくらいはできた(かもしれない)が、やはり「一人じゃできない」という事実(「僕が集団でやるときの身体」にはなれないということ)に直面し、「すみません」とパフォーマンスを終了した。D-2ひらのさりあはかたつむりの殻を置き、それに対置するように、布にくるまった自分をオブジェ的に提示した。それは足から順番に長い布に巻かれていく、動きの提示でもあった。うらあやかは、落ち着かなげな瞬きから、肩を開いたり閉じたり、微妙にお腹を出したり引っ込めたり。その途中で靴下を伸ばし長袖Tシャツの袖口を伸ばす。なぜ、それをしたのだろうか。それはミステリーのあるアクセントになっていた。Dブロックも審査が難航した。ひらのさんのものは布に対する巻かれ方が本当にベストなのか確信できず、対して、僕にとって印象の似ていたうらさんのものが目指すのはベストの追及とは違った点であるように思った。(カテゴリーのより広い方が勝つということか?)。そして審査時間の3分を使い切って(少しオーバーして)届いたのは。硬軟のパフォーマンス―グラインダーで大量のパチンコ玉を弾き飛ばすこと―は、カオス(制御・計算しきれない事象)的なものを想起させた。それを引き起こす硬軟のテンションには少し荒々しさを感じた。分かる、と思った。パチンコ玉は転がって、色々な「へり」にたまっていく。屋上のへり、芝生シートのへり。審査時間の3分が経ち届かせた結論としては、「身体のへり」を感じさせたうらさんの勝ち、とした。我ながらなんのこっちゃという感じですが… 「外」が勝ったAグループに対して、このDグループでは「内」が勝った、と言えるのかもしれない。でもAグループ勝者のひろぽんとDグループ勝者のうらあやかでは、パフォーマンスの見た目は似ているところがある。なので同じ物差しに載れる二つに対して、情報が「外」に多いか「内」に多いかという区別を僕はしたのだろうか。

 かくして、決勝ラウンドに進んだパフォーマンスが出揃った。ひろぽんの決勝パフォーマンスは、迷いながら始まったと思う。手すりから出ている支柱をつかんでみたり… その流れで、任意の観客を隔てて僕から隠れるというタスクに行き着いた。それで5分押し通す。その隠れる動きが、完全に無駄のない俊敏さなわけでもなく、かといってだらだらもしない、それは強さを欠いているように思えた。(強ければいいわけでもないが、このひろぽんのものには強さが必要な気がした)。たくみちゃんのパフォーマンスは予選よりも言葉が多くなった。より多くのものをここで観た状態でパフォーマンスしたからだと思う。身体が閉じると、擦れ合う礫。開くとコピー用紙の破れる瞬間(フリービールのイメージ)。破れたときの紙の繊維のけばだち、それは泡立ち。また、なぜか粘土のイメージ。右手を拳骨にして、指の間からその粘土はニュルニュルと出てくる。ただ立っている人のなんでもないテンションと、荒々しいテンションの対置。発語のフロウに四拍子的なリズムを微かに持たせてみたり。審査で述べたのは、このパフォーマンスは場や他のパフォーマンスに依存しているので原理的に勝てない、もっと、それ自体で立っている「具」のようなものを勝たせたい、ということだ。エキスパンダー☆ユミは、予選と同じ歌だが、今度は観客みんなも歌うことを促した。パフォーマンスの最後に「楽しかったです」と言っていたのが思い出される。そして、優勝のうらあやか。序盤の、細かい動き(手・腕などの微妙な内転と外転を繰り返す、など)が繰り返されるそれは、リズムが予定調和的に思えた。時間に対して従属している、というか。しかしそれは次第次第に、パフォーマンスが時間の主人となっていくように感じられた。主にリズム・間の感覚からその印象は作られた。予定調和的なリズムは深い淵源を湛える間になっていった。ゆっくりと腕を上げ、もっと見たい時点で5分が経って終了した。予選を勝ち抜いてこの腕が上がった、ということに僕は惹かれたのであり、優勝カップが受け取られるのならここに受け取られるのがいいだろうと感じた。

たくみちゃん

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