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あなたは私であり、私はあなたである(もしくはそうなっていたかもしれない)

哲学的なタイトルにしちゃいましたが、僕が30代の頃からとても思っていることです。

人生の捉え方の、かなりのベースの部分にある考え方かもしれません。

本人が選べない要因によって、人はたまたまそのように育つ

人って、生まれ持っての遺伝もありますが、育った環境要因によっても性格や考え方がだいぶ形成されますよね。

親や環境は本人が選べるわけではないので、生まれる場所、育つ環境が違えば、自分は他の誰かのように育っていたかもしれません。

僕自身は東京で生まれ育ったんですが、例えば南アフリカ共和国のスラムで生まれ育っていたら今とは全く違う考え方、価値観になっていたでしょう。

そう考えると、自分が今の自分のようになってきていることって、ほんと偶然でしかないと思うんですよね。

だから究極的には、自分と他人との境目ってあんまりないものなんじゃないか、と思っています。

それが「あなたは私であり、私はあなたである(もしくはそうなっていたかもしれない)」としている理由です。

そう考えると、少なくとも誰かが何かネガティブなことをしたときに、自分はその人自身を非難する気にはなれないんですよね。

自分がそういう人間になっていた可能性は大いにあるので。
(そもそも今の自分に至らない点も多々あります)

人間、誰でもそうは変わらない

誰でもだいたい、イヤなものはイヤだと思います。

マズローの欲求段階でいえば、もちろん生理的な欲求や安全性が足りていない状態って、誰でもイヤで不安になります。

SNSで話題になりがちな承認欲求だって、誰しもが幼少期の頃からもともと持っていたもの。

逆に、してもらって嬉しいことも、そうは変わらないと思います。

最近はウェルビーイングに関する本や記事をよく読むのですが、ポジティブな体験としては以下がまとめられています。

・よく眠れた
・敬意をもって接された
・笑った
・学び/興味
・歓び

こういうベーシックな要素も、誰でもほとんど共通なんですよね。

だからこの点でも、人の根本的な部分ってあまり変わらないよなあと思っています。

他の誰かを尊重することは、自分のことも尊重すること

「あなたは私であり、私はあなたである」という、この話。

大きな結論があるわけでもないのですが、強いて言えばここからのメッセージとしては、自分以外の人に対しての尊重に関することでしょうか。

生きていて、誰かにイライラすることや憤ることもあると思います。
ただ、自分がその相手側になっていた可能性もとてもあるんですよね。

そういうとき、その人に石を投げつけることって、自分に石を投げつけていることとほとんど同じではないかと思ってしまいます。

もちろん世の中やってはいけないことはあるし(主に法律的な意味で)、何かに対して否定的な意見を言ってはいけないとは全く思っていません。

ただ、相手と違う意見を発するとしても、「自分も相手のような立場になっていたかもしれない」という意識がどこかにあると、その伝え方も相手のことを尊重した形になるんじゃないでしょうか。

その上で。
最後に一周回ってその上で、ですが。
それでも確実に存在するそれぞれの人の個性や考え方を尊重できる世の中に、もっとなればいいなと僕は願っています。

それが僕の考える、一つの「ゆたかさ」です。

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