見出し画像

映画『さまよえ記憶』(脚本・監督・プロデューサー:野口 雄大) 幸せな記憶というものがあっても、記憶の幸せというものはない。

映画『さまよえ記憶』(脚本・監督・プロデューサー:野口 雄大)

予告編を見た時に、主人公の結末はきっとそうなるだろうな、というのが伺えた。でも、この映画は結末を知ることが目的ではない。もちろん、エンターテイメントとしての要素としては、結末は大切かもしれないが、本当に大切なのは監督が、映画というものを通して伝えたかったことなのかもしれない。

なぜ人には記憶というものがあるのだろうか。僕なんかはいつも悪い記憶に苛まれる。別に自分が呼び起こしたいわけではないのに、悪い記憶ばかりがよみがえってくる。どうしてだろうか。

科学も発達して、そこには色々な理由付けが行われているが、でも、それだけでは僕の中では納得ができない。見たくないのに繰り返される映像。記憶には過去の記憶もあれば、未来の記憶もある。ある人はそれを未来記憶と言った。妄想と言ってしまえばそれまでかもしれないが、でも、その記憶もとても大切で、その記憶があるからこそ僕たちは今日を生きられるのではないだろうか。明日どうなるかなんてわからないのに。1秒後どうなるかなんてわからないのに僕たちが安心して生きられるのは記憶のおかげなのかもしれない。

それでも、大抵の記憶は忘れ去られてしまう。なぜ記憶は忘れ去られていくのだろうか。なぜ残る記憶と残らない記憶があるのだろうか。そして、記憶がいつも真実であるとは限らない。僕たちが生きる上で記憶なしには生きていくことはできない。ある意味では人生とは記憶である、と言っても過言ではないだろう。人生とは記憶ならば、僕たちは記憶の中を生きている。では、記憶というものは一体なんなのだろうか。

私という存在を形作っている記憶。自分が自分であると思うための記憶。でも、記憶がなくなったとしても、僕たちはまた記憶を創造して生きなけらばならない。赤ちゃんなんかはまさにそうだ。一から記憶を創造していく。でも、赤ちゃんの時の記憶がある人は稀だろう。その記憶はどこに行ってしまったのだろうか。大切な記憶のはずなのに。でも、僕たちは今も生きている。記憶の中に。記憶の外に。

映画を見たあとに監督のインタビュー記事を読んだ。この作品ができた経緯が語られている。改めてこの映画を通して伝えたかったことが伝わってくる。そういう意味では、この映画は別に謎解きを求めているわけではない。でも、人生という不思議について一緒に考えて欲しい、そんな願いが込められているような気がする。

喪失というものが悲しいものであるならば、僕たちはいつも記憶を喪失している。僕たちを形作っている細胞だって、日々失われている。そして、新しいものに変わっていく。変化しないものはない。それは、記憶だってそうだ。僕たちは日々記憶を失い、また創造していく。そして、創造された記憶とともに生きていく。

喪失は悲しい。でも、悲しみは哀しみとなり、いつしか愛しみ(かなしみ)となるものもある。僕たちは人生の中で大きなものを失いながら、それを愛しみへと変えていっているのではないだろうか。それでないとあまりにも人生は失うものが多すぎるのではないだろうか。

でも、生まれた時はまっさらだった。それならば、僕たちは記憶をただ返しているだけなのだろうか。記憶はどこに帰っていくのだろう。

ただ言えるのは幸せな記憶というものがあっても、記憶の幸せというものはない。記憶のどこをとっても幸せなんてないのだ。もちろん、悲しみだってない。記憶とともに生きる僕たちはそんな記憶という華を眺めながら生きているのではないだろうか。

ここから先は

0字
過去の記事はすべて読むことができます。

TAKU LABO

¥390 / 月

「どう生きるのか?」よりも、知りたいのは「生きるとはどういうことか?」だ。 「自分(わたし)らしさ?」よりも、知りたいのは「自分(わたし)…

この記事が参加している募集

A world where everyone can live with peace of mind🌟