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サッカー数字コラム「26」日本最高傑作・香川真司について

サッカーについて、数字から連想した内容のコラム書きます。
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日本サッカー史上最高の選手は誰?女子なら澤穂希で異論はないが、男子はたくさんの意見があるだろう。

ブラジルで大活躍した後、スターとして日本にサッカー人気を根付かせたのはカズだ。他にも、最もキャリアを成功させたのは中田英寿、W杯での実績なら本田圭佑、国内外のタイトルを制覇している長谷部誠、未だに後継者がいない遠藤保仁、オールドファンなら釜本邦茂、奥寺康彦……。

しかし、一番手っ取り早く確実性のある決め方がある。日本とは縁もゆかりもない海外のサッカーファンに聞けば良いのだ。余計なフィルターもバイアスもない。

そうすれば満場一致だろう。セレッソ大阪、日本代表デビュー戦、マンチェスター・ユナイテッドで背番号「26」をつけたあの男である。

香川真司だ。筆者も、単純なスキルや能力だけなら香川がダントツだと思っている。特に、2010〜2012年頃の彼は抜群に上手い。「ヨーロッパでもナンバーワンのトップ下」とドルトムントのチームメイトに評された時のプレーは、そのままドイツ代表でレギュラーになれたのではないかという出来だ。客観的に全盛期で比較したら、往年の中田英寿さえ凌駕しているかもしれない。

あまり評価されていないマンチェスター・ユナイテッド時代にも十分なパフォーマンスを見せている。大男たちに囲まれながら発揮する技巧は異彩を放っていた。

その後、ドルトムントに帰還しトゥヘルの元でインサイドハーフとしてプレーした香川も素晴らしかった。軽やかさに加え、筋力もついた分凄みは増していたとも言える。

その間の日本代表でも、ドルトムント加入時は左サイドから本田との連携で活躍、マンチェスターからドルトムント再加入時はトップ下として君臨し、ロシアW杯で代表では一番良いパフォーマンスを見せた。

しかし、ここが肝である。全盛期は21〜23歳のはずなのに、日本代表で一番活躍したのは現時点でラストマッチ含むロシアW杯なのである。

その理由は、香川が「皆でサッカーをする」選手だからである。最初にテレビで観ていて「急に試合から消えるし、いまいち頼りにならないな」と思っていた。
しかし、それは違う。香川真司は連携で活かし、活かされる選手なのだ。ザックジャパンでたまにトップ下で出ても活躍できず、4年後バイタルエリア(相手DFとボランチの間辺り)をかき回していたのは、あるチームメイトの成長にあった。

大迫勇也である。筆者はロシアW杯での大迫のポストプレーに目を見張ったが、その後、再びその4年前のブラジルW杯のコートジボワール戦を観たところ愕然とした。

全然半端なくないのである、大迫が(倒置法)。ブラジルでの彼は、ボールも収められず、最前線でウロウロしているだけだった。

ここで再び、ロシアW杯の録画を観る(しつこいな)。大迫がきちんと前でタメを作れているからこそ、香川の真骨頂、バイタルエリアでキレキレに相手を翻弄する動きが出来たのである。

思えば、前期ドルトムントではレバンドフスキ、マンチェスターではルーニー、ドルトムント再加入時にはオーバメヤンと、非常にサッカーIQの高いCFが相棒にいる時、香川は輝いていた。

そう考えると、香川真司とは非常に日本人的なサッカー選手と言えるだろう。俊敏で技術の高いセカンドトップ。味方に良い理解者がいることで力を発揮できる特性。
日本人に合うポジションはサイドバック、サイドハーフ、トップ下だと思うけれど、その中で主役と呼べるポジションはやはりトップ下だ。

日本人がいつかバロンドールを獲得するには、このポジションで香川が見せた最高級のパフォーマンスを5〜6年続ければ、そのどこかでチャンスがあるかもしれない。そして日本人男子初(多分アジア人初)のバロンドールを授与された時、初めてその選手は「男子サッカー日本史上最高の選手」に文句なしに決まるのだろう。

そのためには、若き頃の香川真司に比べ、より独力で点の取れるドリブルやシュートを兼備した「個の力」を持たなくてはいけない。チームメイトに恵まれなくても試合を決める選手であることが必要だ。

同じく連携に賢さを見せる久保建英は、中央の打開やサイドから切り込んでのシュートもポテンシャルがある。彼が初めてスペイン1部で海外デビューした際には、背中に26番を着けていた。願わくば、香川の再復活と共に久保建英による躍進を心待ちにしたい。

今回の豆知識「26」
1926年8月26日に、イタリアのサッカークラブ「フィオレンティーナ」が発足された。19「26」年の「26」日という偶然。

90年代には、ポルトガル代表の天才司令塔、マヌエル・ルイ・コスタのパスからアルゼンチン代表FWガブリエル・バティストゥータが「バティゴール」と呼ばれた強烈シュートを叩き込む攻撃で一世を風靡した。

筆者がサッカーマガジン誌を読み返したところ、2002年にサッカーライター・稲垣康介氏がフィオレンティーナの会長にオススメの日本人選手を聞かれ、小笠原満男の名を挙げたというエピソードを発見。しかし、2004年にフィオレンティーナが獲得したのは中田英寿だった。10番を着け様々なポジションに挑んだ、中田にとってイタリア最後のクラブである。

そして小笠原満男は、2006年に同じセリエAのメッシーナへ移籍した。帰国後、小笠原は古巣・鹿島アントラーズに戻り、2007〜2009年のJリーグで3連覇の立役者になった。2009年には小笠原は、JでMVPに輝いている。

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