見出し画像

2月20日(毎日をていねいに、余白を取り戻す)



最近また仕事が忙しくなって、毎日を振り返ることができなくなってしまっていた。

仕事のせいだけじゃないかもしれない。

何かのために、何かを続けること、それも自分が大切にしていることを辞めてしまうのは良くないことだ。
とても個人的なことなので、それを辞めたとしても誰にも責められることはない。辞めたことには世界で自分だけしか知ることはない。
でもその世界でたった1人、自分のことを知っている自分は、大切にしてあげないといけないと思う。

今日は13時に起きた。今日はそういう日だと決めていたので、別に問題はない。
僕の部屋の壁には、自分の幸せに過ごせる1日という絵が飾ってある。
そこには22時半に寝て、6時に起きると書いてある。
理想的な1日だから、もちろんうまくいかない日もある。でも、それを毎日言い訳してうまくいかないことを正当化してしまっている自分に気がついてしまった。

ゆっくり喫茶店で休むこともできていなかった。毎日通ってはいるけれど、コーヒーの味もホットドッグの味も、あんまり覚えていない。
深呼吸も、最近はいつしただろうか。日記を書いてはいるけれど、字は汚くて、とても丁寧に向き合っているとは思えない。

誰にも気がつかれないけれど、自分だけはそのことを知っている。
今日は何だか心が落ち着いている。疲れ切って振り切れてしまったのかもしれない。
でも、コーヒーの味はちゃんとする。それくらいには落ち着いている。

まずは日記を丁寧に書いてみた。それだけでも気持ちにぼんやりとかかっていた霞のようなものが少し晴れたような気がした。
家に帰ったら、何をしようか。洗濯物をしたり、食器を洗ったり、そういう普通のことを丁寧にやってみたい。

昨日までの自分とは全くの別人になってしまったような気がする。
それくらい、忙殺されて、自分を犠牲にするというのは恐ろしいことだ。正常な判断も心の余裕も無くなってしまう。
やらないことを決めるというのも大切なんだろう。最近の僕は、やらないことを決められなくなって動けなくなってしまっていたのかもしれない。

みんな他人だ。僕の意図とは関係なく、みんな生きているし、自由に行動する。
僕が何をしても、誰も何も気がつかない。僕だけがそれを経験している。
だから、毎日を丁寧に生きないといけないのだと思う。

毎日に「余白」を作ろう。最近買ったノートに、余白を楽しむ、と書いてある。
僕の余白はどこに行ってしまったのだろうか。
余白を埋めたのは他でもない僕なのだけど、余白がない時はそんなふうに思えてしまう。
余白を取り戻してみよう。まずはそこから始まるのだろう。

誰かを楽にして、自分も楽になれる文章。いつか誰かが呼んでくれるその日のために、書き続けています。 サポートするのは簡単なことではありませんが、共感していただけましたら幸いです。