僕が密かに「ルネッサンス」と呼んでいること

あれだけ流行っていた「副業」という言葉をめっきり聞かなくなってしまった。自分の周りだけだろうか。
いま、世界は違った方向に進もうとしている。
僕は今心の中で密かに「ルネッサンス」と呼んでいる。

僕が常日頃感じていた社会との乖離、これはたぶんみんなが感じていることだったんだろう。
やっぱり、魂と魂を交流できないような環境に人生の大半の時間を置くなんて、人間として無理のある行為だったんだろう。
僕は確信している。また、世界と関わろうとするようになるはずだ。

人はもっと自由になっていいはずだ。自由というのは、制限に対する自由ではなく、自由そのものを受け入れるということだ。
社会をベースにしてこれまで作ってきた全ての物を一旦忘れて、どこか昔に戻っていく。解雇するのではなく、「今」の上に「昔」を乗せていくような感じだ。
これで伝わっているのかどうかわからないけれど、肌で感じている。

コミュニティ作りみたいなものは、江戸時代の長屋システムにしか見えない。物作りニッポン!みたいな話も、ちょっと前なら賛否両論叩かれていたと思うけれど、今ならわかる。みんな自分も何か作ってみたいからそういうことを言っているんだと思う。
コンクリートしか踏まない生活に気持ち悪さを感じていたのも、土への回帰だろう。人間はもともと、畑を耕していた。

いろんなことを始めては辞めて、そんなことを繰り返していたけれど、文章を書くことだけは、もう何年も続いている。
それは、生み出すことに何か希望みたいな物を感じていたからなのではないだろうか。

この間、Macのディスプレイを修理した時に感じたあの高揚感はなんだったのだろうか、と考えていた。
誰かが綺麗に作った、完璧な何か、自分では再現できない何かを、「分解する」ということを通じて、再び自分の手に取り戻していく。
それがあの高揚感に繋がっていたのではないだろうか。
またそれは、どこか昔の自分に戻ったような気もしている。
かつて、なんでも自分で生み出していた。人形やぬいぐるみがあれば、独自のストーリーや世界を作る事ができたし、何もなくても、僕は小説や漫画を描いていた。

昼休みに自分で作った漫画を配っていたことを思い出した。あれは間違いなく、生産であり、そこには経済があった。
あの時の興奮は忘れられない。細かいことは覚えていないけど、あの感覚だけが僕の中に残っている。

「作る」「生み出す」

そういうことが、これからの世界を作っていくんだと思う。
売れるとか、売れないとか、有名になるとか、そういう次元ではなく、生み出すことから始めなくてはならない気がしている。

僕はこれから一人で「ルネッサンス」を始めていくしかないのだ。
超個人的な「ルネッサンス」を。

誰かを楽にして、自分も楽になれる文章。いつか誰かが呼んでくれるその日のために、書き続けています。 サポートするのは簡単なことではありませんが、共感していただけましたら幸いです。