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波(偽日記17)

近所に7つくらい寺が密集している。そんな、変な場所に住んでいるのに、引っ越してきてからまる一年以上立ち寄ることもなく過ごしていたので、ついに先日ぜんぶいっぺんに回ってみることにした。はいってみると、案外に敷地が広い寺も多く楽しめた。よく京都とか、なんかジャパン!みたいな土地の観光地にいくとある線香立てるでかい鍋みたいなのもあったが、近年は参拝客も少ないのか、一本も線香が立っていなかったし、販売もしていなそうだった。売っていたところで、私の財布の太り具合では買えないが。

5つつめか、もしくは6つめくらいの寺の敷地にはいると、お坊さんが外に立っていた。植栽工事か何かを見守っているようだった。平日の昼間に若い男がふらふらはいってきたものだから、少し驚いた顔をしたあとに、なにか悩みでもあるんですか?というようなニュアンスのことを丁寧に言われ、なにも悩みはありませんと答えた。お坊さんは悩んだりするんですか? ええ、たくさん。そうですか、へえ。って池の鯉を眺めてから立ち去った。ここ最近はずっと雨が降っていたけれど、その日は馬鹿に晴れていたから、そよぐ風を受けて冷えるレーヨン地のシャツのはためき、肌をくすぐって心地よかった。

また会社をやめる。いまはとりあえず休業の扱いになっていて、あらゆる公的な支援について調べ上げ、最良なパターンを探っている。貯金はほとんどないので、とにかく削れる部分を削っていくしかない。10個で100円のじゃがいもを齧る。

「左手を削りましょう」
私は頷くしかない。今晩から、からだと頭を洗うのが億劫になるだろう。
病院からでると、夏風がいまはもう通すもののない服の袖を揺らした。
煙草を吸おうとおもったら、パックから一本取り出すのにも苦労した。取り戻せないものがこれからもっと多くなり、いずれはそれに慣れて、小規模な、個人単位の奇術で、誰にも必要とされない器用さを得ていくはず。

友人の影が現れて、私に金を貸してくれる。私の眼はもうそいつの顔を、これからしばらくの間は、色彩をもって、光のあたった顔を、みることができない。友人の影はジープに乗って帰っていった。おまえには助けられてしかいないよ。排気ガスの匂いが鼻に残って、もうしばらくは何も味がしない。

会社をこんなに早くやめるなんて想像もしていなかった最近に買った、朱色のアロハのうえで枝垂れ桜が揺れていた。春には、とおもっていた。春にはきっといい方向にいくはずだとおもっていた。呼吸に夏が混じり始めて、私はもうすぐ26歳になるのだとおもいだした。広告代理店で馬車馬のように働いた3年間の記憶が蘇り、もはやそれは牧歌的な、美しい経験にすらおもえてくる。仮に過ぎ去ったがゆえのきらめきだとしても、しかし、掛け値なしでいまの仕事よりはマシだったといえる。次の春には、とはもうおもえない。

サウナに行った。他人の金で。なんか流行りらしい。整う、というのがあるらしい。サウナに入り、水風呂にしずみ、椅子で寝るやつ。とても気持ちがいいらしい。熱いのが苦手ですぐにでてしまうから、その恩寵をあまり受けられないまま、結果露天風呂で弱く息づいて終わる夜ちょっとほんとうに夏で、もう逃れられないくらい夏らしい。風呂上がりの牛乳で喉が育ちそうなくらい心地よかった。

セグウェイに乗った。海辺に、知り合いの社長さんが新しい社屋を建てて、その引っ越しを手伝った。セグウェイが三台あって、暇な時間はそれに乗って町を駆けた。釣り人や町人がものめずらしそうに私をみていた。社屋も、変に近代的で、現場にきていた建築士の人がいうには初のこころみらしい。四本のでかい柱のうえに、社屋が載っている。建築士の人が真・女神転生が好きらしくて、真・女神転生123のそれぞれの素晴らしさについて話した。ちらちらとそよぐもうない左腕に目をもらっていることに気づいて、悪魔合体に使いましたというと、曖昧に微笑んでそのまま別れた。社屋で、社長の奥さんがこけしに色塗りをしていて、ここにいまからあおをいれるんだあ、といっていた。もう60近い年齢だったけれど、たぶん若い頃は妖精のような人だったろう、と言葉の流れの和やかさをみておもった。特殊な、楕円形の入れ物になっているこけしを指して色々と適当な感想をいったら、きみは目がいいねえ、とつま先をみられながら言われた。

セグウェイで土手までいき、海をみた。私はいつも、子供のときから、ことあるごとに、海ばかりみている。なので、眼窩には海があって、よく波打っていたのだけれど、最近はもう干上がってしまった。満ち潮のときはもう過ぎ去って、とても喉が乾く。浜辺で、ましろい足を波が打っていた。私はそばまでみにいくことにした。見事な足だった。断面の筋や血管いがいは、日焼けしていない砂か陶器のように白く、しかしふくらはぎの張りは健康的で、軽やかに、とても軽やかに歩める足だった。波まで踊る足に、やや曇りだった空が割れて、陽がスポットライトをあてた。天使みたいな産毛が光った。私は目が眩んだ。足が、波を蹴って私に飛ばした。飛沫ひとつひとつがみえた。そのひとつひとつに名前をつけてあげられるくらいの時間が私には許されていた。飛沫は、空気のなかの水まで吸い取って大きな波になり、私のからだを、私の輪郭のぜんたいをまるごと飲み込んだ。笑えもしないし、泣けもしなかった。ポケットを探ると煙草がワンパックぜんぶ駄目になっていて、私は私のなかで薄暗い暴力がせりあがるのを感じ、拳をつくって足に殴りかかった。私の拳骨が、かの足の脛を打ち砕こうというときに、海から腕が飛んできて、私を殴りつけた。血色の良い左腕で、私のなくした手に似ていた。腕は飛び魚みたいに跳ねて、海に帰っていった。誰かの足は浜辺を超えて、どこかに走り去った。潮の匂いが鼻を突いた。背後でおそろしい波がのたうって、もういちど倒れたら、飲み込まれてずっと浮かんでこれないはずだ。足は、もうみえないところまで駆けていってしまい、遠目にみる流木と見分けがつかない。次に、次に街にでたときに、よく進む足をなくしてぼんやりとしている女が、うなだれていたら、そしたら背負ってここまで連れて行ってやることにした。おまえは俺の、たしかに俺の、5歳のときの花嫁だったのだから。


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