『妬まない生き方』を読んで人生が変わる気がした話。
『妬まない生き方』という本を読んだ。
人に対してまったく妬まない人は読まなくてもOK。でも、すこしでもそういう感情をもったことがある人は、妬みのメカニズムを知ると、もう人を妬まないようになる。
ここでは、本を読んだうえで、自分の考えをすこしくわえてアウトプットする。僕は人を妬まず、自分と戦って結果を出す人生にあこがれる。そしてそれはある意味、自由な人生だとも思う。
この本を読んでそれが実行できたら、人生が変わる気がする。僕と同じような感覚の人は、ぜひ読んでみてください。
※ここに書いてある考えは、すべて『妬まない生き方』がもとになっていて、僕自身の考えですこしアレンジがくわえられています。
なぜ人を妬むのか?
存在欲、ひいては自我がつよすぎることが妬みの原因。
存在欲とは、自分の存在を認めてほしいという生きる上で欠かせない欲。でもこれがつよすぎると自我(自分中心の考え)がつよくなって、自身の存在のためではなく、自分中心の世界のためにどうか?という判断をするようになる。
たとえば、他者を自分中心の世界における“好き嫌い”で判断し、自分中心の考えで認めたり評価したりする。
そうなると、自分より優れている人は自分中心の世界では認められないから、認識にエラーがおこる。これが妬みを引き起こす。
評価はあってないようなもの。
これを別の角度から見てみよう。
心のなかには自分に対する固定された評価がすみついている。これを仏教の言葉で「慢(まん)」という。でも、本来、評価はどんなモノサシではかるかによって変わる変動的なもの。つまり、評価は本来、あってないようなものなのだ。
人は、その人が自分より優れていると思い、一方でそれを認めたくないから嫉妬する。でも、その「優れている」もあってないようなもの。変動的な評価にすぎない。
つまり、人は自分で勝手につくった自己評価と他者評価を比較して嫉妬している。こう書くと、これはただの妄想だと気づく人もいるかもしれない。
すべては無知からくる妄想にすぎない。
仏教では、すべての苦しみの源は「無明(むみょう)」にあると説く。これはすなわち、無知のこと。人は無知ゆえ、あるぬ妄想をして苦しんでいる。
無知であることを自覚して、知ろうとすること。そして、妄想ではなく、論理的に考えて答えをだすこと。これで今よりも苦しみから解放される。
これを、こと「妬み」に関する解釈に転用すると、人は自分と他者をよく知らないがゆえに、妄想をふくらませ、妬みが暴走するともとれる。
「嫉妬やコンプレックスをバネに競争に勝つ」は間違い。
人はよく嫉妬やコンプレックスをバネに競争に勝つという考えをするが、それは間違い。
そもそも競争に他者は関係なく、競争は自分自身とすること。
競争は、自分自身の能力を高めるために自分と戦うことだ。
つまり、戦うべき相手は他者ではなく、自分の能力を高めるのを邪魔する悪い感情とも言える。
大事なのは「喜びのリピート」
そもそも脳はネガティブなことに注目するようにつくられている。
それは生存すら危うかった大昔に体得した能力。しかしいまは必要以上にネガティブなことに注目しなくていい。それより大事なことは、喜びに目を向けて脳内でリピートするようにすること。
リピートするときに大事なのは、たとえば誕生日プレゼントをもらって喜んだとき、プレゼントに意識をむけるのではなく、喜ぶの感情そのものに目を向けること。プレゼントはリピートできないが、喜びは脳内でリピートすることができる。
これによって、脳内に喜びを感じる回路ができあがり、つよくなる。
脳は共感する力がある。自分の喜びで終わらず、他者の喜びをも喜べるようになると、それは嫉妬に対抗する手段となる。人の成功を喜べるなら、嫉妬は生まれないからだ。
敵は我なり
こんなnoteを書くと勘違いされるかもしれないけど、僕自身あまり人を妬む性格ではない。
ただ、たまに妬みに近い感情を抱くことがある。
正確にいうと、「いいなあ」と思って、「なんで自分は・・・(ネガティブ)」という思考におちいる。過去を振り返ると、27歳くらいまで今より妬みはなかった。たぶん、これは起業してからうまくいかない時期につちかわれた、悪しき思考回路だ。
人を妬むのは気持ちよくない。こいつをどうしたものかと思っていた矢先に『妬まない生き方』に出会ったのだ。
人を妬むことが愚かなことだと思い、ここから脱却できるのも良いことだけど、競争に関する認識を改めて刷新できたのも良いことだった。
プロサーファーの五十嵐カノアさんは、こんなことを言う。
敵は誰だ?
そう。
敵は我なり。
ありがとうございます!好きな本を買うか、旅に出ます。