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商売は「感動 + ○○ = △△」


商売とは、感動を与えることである。

電機メーカー「ナショナル(現在:パナソニック)」を一代で築き上げ、経営の神様とも称された実業家であり技術者でもあった、

松下幸之助氏の名言です。

遡ること1960年代の高度経済成長期からバブル全盛期は、
「モノ消費」全盛期で、モノがまだ少なかったとされ、
生活者の暮らしを豊かにするテレビやクーラー、自動車、冷蔵庫、洗濯機、テレビなどは市場に投入すればすぐに売れた。

多くの消費者は「モノ」を所有することこそ、
頑張ったご褒美と捉えられていた。

ブランド品や高級車、宝飾品など高額なモノへの消費が活発だったバブル期はまさにそれらを象徴している消費傾向が見られ、企業は商品の機能的価値さえ提供していれば売れる、そんな時代だったとされます。

そんな「モノの機能性」に価値を重んじる消費者に、
松下幸之助氏は、どのようにして、
「感動」を与えようとしたのだろうか?

できるだけいいモノを、使い勝手や便利さといった機能性など品質の高い、できるだけ「いいモノ」を提供し、他社の類似商品に差別化した、モノの機能性自体に「感動」を与えようとされていたのだろうか?

僕が思うに、幸之助氏は、モノの感動という視点ではなく、
もっと本質的な「感動」を与えようとしていたのではないかと思うのです。


感動してもらえるのは「目的」ではなく「結果」



幸之助氏は、こんな名言も残されています。

「人と比較をして劣っているといっても、
決して恥ずることではない。
けれども、去年の自分と今年の自分とを比較して、
もしも今年が劣っているとしたら、
それこそ恥ずべきことである。

幸之助氏のこの言葉から察して、機能性に優れたすごいモノを作ろうというこだわりよりも、

「働く人」の働き方やモノづくりに没頭する「人の心」を大切にしていた

ことが、僕にはすごく伝わります。

いいモノを作ればいい、他のメーカーよりも機能性に優れたモノを作る事にばかり意識を向けるのではなく、

今作っている自社商品にどれだけ魂を込められるか。

モノを売ればモノが売れた時代だったとしても、ただ単に、モノを売ればそれでいいということではない。

本当にいいモノというのは、売ったあとに、お客さんがどれだけ末永く、愛着を持って使ってもらえるかどうかが重要で、
その時に感じる質のよさに気づいてもらった時に、いいモノに「感動」するはずです。

作り手が本気で魂を込めて質の高いモノを作ろうとしなければ、いいモノはつくれないし、感動レベルに至るまで愛着をもって使い続けてもらえはしない。

モノはあくまでモノでしかなく、どれだけ真剣にいいモノを作ろうとする
「作り手の気持ち」があるかどうかを消費者はちゃんと感じるものだと思う。

お店の売られた出来合いの総菜よりも、うちで母さんが作ってくれた手作りに「愛情」を感じるのと同じで、モノは、心が加わる事で「いいモノ」になり、感動を与えるのだとおもう。

とはいっても、頭から「感動してもらおう」とか、自分の作ったことに「感謝してもらおう」という、承認の欲求ばかりが募ってしまうと、「いいモノ」を作るという目的がずれてしまいます。

人の心を動かすことをしようとか、感動を与えることが大切だって言われたりするが、それは「目的」ではない。

その気持ちを持つことは決して悪くはないのですが、心を動かす、感動を与えることが目的となったら、そんなの与えられるわけがないのです。

もし与えることができるというのなら、それは「結果」としてそうなったことにすぎないといえます。

感動するのは、あくまで相手であって、むやみ与えようとすると、それは「俺の酒が飲めねーのか」っていうどこかの上司と同じです。

つまり、松下幸之助氏の「感動を与えること」というのは、他人と比較しようとせず、むやみに評価を求めようともせず、とにかく、いいモノを作ろうすることに没頭し慢心しよう。

すればいずれはそれが、相手が自ら「感動」してもらることとなるるのだ。と。

さらに、幸之助氏は、消費者に対してだけでなく、取引先に対してでも常に「感動」を与えることにこだわっていたとされます。

例えば納期でも、3日後かなという所を2日で納品できれば、事前期待を上回る。このように常に事前期待を上回るように考え工夫してさらに実践してみるのである。

この積み重ねが取引先の「信用」にもなり、会社の看板にもなり、働くものたちの「誇り」にもなっていく。

いつも事前期待を上回ることを真摯に考え実行していこう。これが社風をつくり、信用をつくり、やがて大きな事業になり、やがては繁盛につながる。

モノを売りさえすれば売れた。そんな時代にもかかわらず、お客に「感動」を与えようとした幸之助氏は、「モノ」の質だけでなく、「ヒト」の心に視点を置き、商売の本質をすでに見抜いていたすごい方だったんですね。ホント、びっくりです。

人に感動を与えることができるのは、「モノ」ではなく、
「ヒト」でしかできない。

ということなのかもしれませんね。

ところが、今の時代、モノやサービス、情報などあらゆるものが過剰供給状態にあり、すでに多くのものを持っている今の生活者は、極端な表現をすると「欲しいものが特にない」「欲しいものが分からない」状態にある。

富裕層に関して言えば「お金の使い道がない」という声も聞くほどです。

さらには若い層を中心に「断捨離やシンプルライフなど、いかにモノを増やさないか?」に考え方がシフトし始めている。

国内市場における消費の成熟化が進み、 消費者が生活に必要なモノはすでに所有している状態になり、モノの価値だけでは選ばれにくい時代になった。

インターネットの普及による価値基準の多様化。特にSNSの普及で体験をシェアすることに価値を見出し、幸せや生活の充実を「精神的充足感」に求めるようになったことは、すでに今さらの話。

そんな「モノ」が飽和状態にある今だからこそ、松下幸之助氏の「商売とは、感動を与えることである」という言葉が生きてくる。

だが、はたして「感動レベル」の商売で、消費者の心を動かし、さらに買ってもらえるだけのアクションになるのだろうか。この消費低迷傾向にある世の中で。


「感動レベル」から「感激レベル」へ



人が「感動する」とはどういうことだろうか。

たとえば、キレイな風景を見たり、映画を見たり、本を読んだりした時に得る気持ちは「感動」です。

その感動の対象は、風景・映画・本といった物質的なモノ。

一方で、あなたが誰かにきれいな風景を見てもらうために旅行を計画し連れて行ってあげるとか、面白い映画に誘うとか、いい本を貸してあげるとかは、先ほどの感動する「物質的なモノ」に加え、あなた自身のはからいに
感謝という感情が加えられます。

この時に得る気持ちは「感激」です。

「感動」と「感激」は、あまり区別なく使っているように思えますが、その違いは、どれだけ他者に「感謝してもらえるか」ということ。

他人からの親切とか深い思いやりや優しさとかの心遣いや気配りといった、プラスの感情をもらえた時、あなたに感謝の意を示し「感激」するのです。

たとえば、あなたが他の誰かに、すごくいい話をする場合、その話の内容が感動に値するすごく良い話だったとしても、専門用語が多かったり、内容そのものが理解できなければ、あなたはその人に「感謝」されることはないでしょう。

しかし、その感動の話を「すごくわかりやすく」話すようにすれば、
その話をされた人は、「感激」します。

なぜなら、すごくいい話に感動し、さらに、すごくわかりやすく話してくれたあなたに感謝という「プラスの感情」をもらえたことで、感動を超えた、「感激」になったからです。


感動 × 感謝 =感激


ということですね。

いいモノは、いいモノでしかありませんが、それをどう与えるか、
というプラスの感情を加え、感謝してもらえるかによって、
人に感激を与えることができる。

それが、商売を繁盛させるための、「差別化」だったり、「独創性」「オリジナリティー」だったりする。

つまり、似たような商品やサービス、コンテンツを提供し、感動をあたえることはできても、わずかな付加価値を加え、いかに「感謝」してもらえるかが大切です。

感動レベルとは、「いいね」って思うレベルで、それでは行動を起こしてくれません。

ところが、感激レベルでは行動を起こさないわけにはいかない、
いてもたってもいられなかったりする。

売り込みや説得では行動を起こしてもらってなんぼですから、この「感激」レベル」まで誘導しなくては今の時代のセールスは通用しないのかもしれません。

感激レベルに持っていくには、相手が心の底から必要性を感じさせ、向こうからアクションを起こしてもらわないといけない。

便益を並べまくって、これでもかこれでもかと良さを説明しまくるセールスではモノが売れた「モノ消費」の時代ではつうようしたかもしれないが、「コト消費」の現在では皆無です。

何しろ、相手が自分から必要性を感じなければダメなのです。必要性の押しつけは、どんどん相手の心を閉じさせてしまいかねない。

あなたは、もし世の中の人たちに「感激」を与えることができたら、と想像してみたことはありますか?

世の中にはいろいろな仕事があるが、人に喜びや驚きなどのワクワクを与えることができたら、きっと自分自身の心も満たされ、とても豊かな気持ちになれるのではないでしょうか。

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