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フリースペースSORA

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「フリースペースSORA」は、不登校の子どもたちのための居場所づくりを目的に、山形市で2001~03年にかけて活動していたボランティア・グループです。こちらは、その実践のなかで紡… もっと読む
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ぼくはいったいなぜ、フリースペース活動に関わっているのか?

■「不登校の子どもたちの居場所づくり」ということで、フリースペースの企画運営にかかわり始めてから、早いものでもうすぐ2年がたとうとしている。活動を始めた当初から、代表である自分に対し投げかけられ続けてきたある問いがある。それはこういうものだ。「なぜ(不登校経験があるわけでもない)あなたが、そのような活動にたずさわっているのか」と。そこでは暗にこう言われているのだと思う。「経験もない(=不登校を理解できない)あなたに何ができるのか」と。確かにぼく自身は、不登校の経験もひきこもり

「癒し」としてのフリースペース

 不登校の子どもたちが安心して生活し成長していけるような居場所をつくるという目的のもと、私たちが活動を始めてもうすぐ一年がたとうとしています。4月には県内初の通所型フリースペースとして「フリースペースSORA」を開設し、現在までに十数名の子どもたちを迎え入れてきました。  SORAには校則もなければ時間割もなく、過ごし方は全て子どもたち自身に委ねられています。何かに懸命に取り組んでいる子もいれば、おしゃべりしに来る子もいるし、何もせず過ごしている子もいます。いろんな空模様があ

不登校・彼らの居場所づくりの現場から ~フリースペースの悩みは財源確保~ (フリースペースSORA 代表 滝口克典、スタッフ 鴇田愛)

 不登校の子どもたちの居場所づくりとして活動をスタートさせたフリースペースSORA。開設して二年目に入った現在では、まったく学校に行っていない子たちのみならず、普段は学校に通っている子や就職して働いている子なども集まってくる、子どもたちの出会いと交流のスペースとなっています。  そうした中での夏休み、SORAは新たな試みや企画にチャレンジしました。その一つが、7月末に行われた「月山弓張平お泊まり会」です。弓張平にコテージを借り、そこで一泊してバーベキューをしたり自然体験をした

ぼくらがSORAを創る理由 ~不登校の子ども達の「居場所づくり」(下)~

 前号ではフリースペースSORAの活動を紹介しましたが、今回は、そもそもなぜこの活動に自分が参画するようになったのかについてお話したいと思います。  大学院を卒業後、私は県立高校に常勤講師として勤務しました。はじめから教師を目指していたわけではありません。教員を志望したのは、自分が身につけた専門知識を役立てたいというそれだけの理由でした。  もともと私は学校が好きではありません。というよりは、好き嫌いを語るほどの執着すらもっていません。現に自分の学校時代のことなどほとんど覚え

フリースペースSORAってどんなところ? ~不登校の子ども達の「居場所づくり」(上)~

「今月はどんなことする?」  集まった子ども達はそれぞれ自分のしたいことをアピール。意見が出尽くすと、今度はそれが可能かどうか、どんなふうにやるか、等の話し合いに入ります。もちろん、積極的に会話に加わる子もいれば、そうでない子も。しかし、控えめな子にも必ず意見を聞く姿勢は徹底しています。それは、とてもやさしい光景だといつも思います。フリースペースSORAの日常のひとコマです。 * * *  フリースペースSORAは、不登校の子ども達が通ってきて安心して過ごせる「居場所」と

「子どもたちの居場所づくり」という名の居場所。

訳あって今回が最後になるこの連載、最後は「フリースペースSORA」というものが自分たち運営側にとっていったい何だったのかということについて改めて考えてみたいと思う。SORAは今から2年前、「不登校親の会山形県ネットワーク」の主催する事業として誕生した。目的は、「不登校等の子どもたちの居場所づくり」。学校にも家庭にも居場所を見出せない子どもたちを対象に、彼らが安心して生活し成長していけるような社会環境づくりのための第一歩として創設された、民営のフリースクールである。 フリース

フリースペースと「学力低下」?

学校現場への完全週休二日制や新学習指導要領の導入からもうすぐ一年、巷ではいよいよ「学力低下」への不安や批判の声が大きくなってきているように感じる。だからであろうか、フリースペースSORAに対しても次のような批判をいただいた。すなわち、「学齢期の子どもたちを学校にも戻さず好きなままに過ごさせているなど、学力低下は必死だ。子どもたちの怠けや逃げを放任するフリースペースは、学力を低下させる!」というものだ。 二つのレヴェルで返答したいと思う。第一に、そもそも最近その「低下」が騒が

「わかりやすさ」ということの陥穽。

前回のテーマとも関連するが、私は、フリースペース(あるいは不登校)について語るための言葉が、「こころ」をめぐる語彙やロジック(心の病や歪みを治しましょう)のみに覆い尽くされてしまうことに危惧を覚えている。そうした画一的な語りは、私たちが自身の属する社会システムについて思考するための、貴重な機会や動機を損ねてしまうのではないかと思うためだ。不登校「問題」を、個人の内面=「こころ」の問題としてのみ枠づけるのではなく、私たち自身が幸福に生きるための学校づくり/社会づくりへのヒントと

フリースペースは「こころの専門機関」であるか?

フリースペースを運営していると、さまざまな場面で、不登校「問題」に取り組んでおられる学校の先生方やカウンリングなど「こころの問題」にたずさわっておられる方々と話す機会がある。他者とコミュニケートしたり対話したりすると、図らずもお互いがそれぞれ無意識の内に前提にしてしまっているような価値規範なんかに気付けたりするものだから、私自身はそういう場面が大好き(萌えー)である。そこで一つ、私が気付いたフリースペースSORAの前提について、今回は記述してみたいと思う。 SORAは、「不

フリースペースにおける動機の調達について

前回、SORAにおいて子どもたちを迎え入れるスタッフは「教育」や「指導」のような学校的な身振りを採用していないのだということやその根拠と意味について述べたが、その最後で、「指導」を回避することの効用に関して、「あえて“指導=教育”を行わない場をつくるという意味においてのみ教育的である」と述べた。では、そこで語られている「指導」とは異なる教育的身振りとはいったい如何なるものであるのか。今回はそのあたりを記述してみたいと思う。 一度でも来てくれたことのある方なら分かると思うが、

「指導=教育機関」としてのフリースペース?

SORAで活動しているとよく、「センセイ」と呼称される場面に出会う(その大半は、教育関係者からのものだ)。この言葉には「SORAのスタッフ=教育・指導に従事している者」という前提があるように思う。確かにそういう捉え方がSORAの内部にも全く存在しないわけではない。関係者の大人どうしで話している場面でも、常識的に見て社会通念上不適切と思われるような子どもたちの振舞いに対し、「指導すべきではないか」等という声があがることがある。だが私(そしてこれまでのSORA)は、この「指導=教

フリースペースと“速さ/遅さ”について

フリースペースSORAとは何かについて、はじめての人に語る際に必ず説明するよう心がけていることがある。それは、SORAでは、フリースペースという場にいる子どもたち1人1人の時間感覚やペースを最大限尊重する構えをとっているということである。こうした構えには、いったいどのような思想的背景があるのか。今回はそのあたりを記述することで、フリースペースの社会的意義というものについて考えてみたい。 子どもであれ大人であれ、現代のこの高度に資本主義化された社会に生きるぼくたちは、「生産的

フリースペース運営と発言権/決定権について

フリースペースSORAの開設・運営に携わってきて1年がたった。身近にモデルも前例もなく、すべて手探りの試行錯誤の中で積み上げてきたのだが、これまで積み上げてきたものをこの辺りで一度、きちんと分析し批評し位置付けする必要性を感じてきた。今回よりその作業に取り組んでいきたいと思う。そもそも、フリースペースSORAとは何なのか。そしてそのフリースペース(フリースクール)を山形において開設するとは、どういうことなのか。今回は、フリースペースSORAの団体組織のありかたについて考えてみ