2019.12.23函館教育大韓国語授業資料「将来の夢」(ちょっと抽象的な話)

「皆さんは将来何になりたいですか」なんていう質問は、物心付いた時から何度もされてきたと思います。今日はちょっと視点を変えて、「将来何になるか」ではなく、「将来何をするか」を考えてみたいと思います。今回は、ちょっと話が長く複雑で申し訳ないです。

 1.「であること」と「すること」

 ちょっと遠回りな話になるのですが、1961年に日本の知識人・丸山真男という人が、「今までの日本社会は身分だとか家柄だとか、『であること』で評価されていた。だが、近代化に連れて多様な価値観を持つ人と接触する社会になったことで、『すること』で評価する世の中になった。それにも関わらず、『であること』の価値が未だに根強く、ダブルバインド(板ばさみ)になっている」[1]というような話をしています。さらに、そういったダブルバインド状態は、西洋の波が押し寄せた明治期に漱石が感じていたことでもあると述べています[2]。本に書いていることを2010年代に、ざっくりと換えると、「多様な考えを持つ人が集まるグローバルな社会では『であること』は意味を成さず、行動で示さないと評価されなくなってる。しかし、未だに日本では『肩書き』にこだわって、肩書きで偉いだ偉くないだ言って、結局行動が評価されにくい社会が継続していて、社会は矛盾し、それによって、皆具合悪くなってるよ、鬱状態にあるよ」みたいになります(傍若無人な偉い人ってニュース見てるとたくさんいるでしょ?それによって振り回されている人もたくさんいるでしょ?)。

漱石は留学経験もあるので、明治期のように日本人と西洋人々が往来するようになった時期、「であること」と「すること」の間で具合悪くなったのも当たり前かなと思います。例えばヨーロッパの何某に、「日本の一地方の名家で(●)あ(●)る(●)」というプライドを持って話しても、「へぇー、そうなの。で一体なにしたのあなた?」と一蹴されてしまうこともあったでしょう。それは国内であっても同じです。「大泉洋」は全国区になるまで、北海道のタレント「洋ちゃん」でしかなく、知名度を上げるまでは、道外にいれば「ただの陽気なお兄さん」だったわけです。少なくとも「水曜どうでしょう」がスタートした私が中学生だったころ、水曜どうでしょうを知っていたのは函館の中学校でさえ数人だった記憶があります。だから、「であること=肩書き」の効力が利かない社会・世界において、当たり前ですが「であること」は意味がないということです。

 

2.「であること」はなくならない

 これは60年近く前に発表された、「『であること』と『すること』」についての考察ですが、今の社会でも同じように言える(そもそも同じようなことを既に漱石が言っていたわけで、100年以上前から日本は何にも変わってないな)と思います[3]。そもそも、「人がしていること」なんて本当に身近にいる人にしかわからないことですから、私たちが人を評価する時、だいたいは次のようなことを参考にしていると思います。

 

・身体的特徴や服装等の外見(性別的なものも含む)

・世代

・学校、会社、専攻、サークルなどの所属先

・職種、役職名などの役柄

・○○家の出身、○○の息子、どこそこの地方の武将の末裔などの出自[4]

 

 身近に過ごしていると当然、行動で評価するようになるわけですが、初めましての状態で○○大学出身とか、大手企業の○○に勤めています、とか聞いてしまうと、「おおっ」となってしまうのが人情です。たとえ、その人が家庭内暴力やヘイトスピーチ[5]をしていても、行動を見られないならば、人柄を肩書きで判断するしかないのですから。

 このような肩書きで人を評価する社会を変えることは容易ではありません。夏目漱石も丸山真男も、「なんかおかしいな、矛盾しているな」と感じていたにも関わらず、100年以上も変わらずに来たということは、それはそれで社会的に意味があることなのかもしれませんし、社会を回すための装置として「正しく」動いているのかもしれません。

 しかしながら、社会がそうだとしても、そろそろ、変えられる人から変えていかなきゃならない時代なんじゃないかなとも思います。というのは、日本も「であること」にこだわっていては、漱石とか一部の人だけじゃなく、みんなが具合悪くなるんじゃないかなと思えるからです。

 

3.「であること」は人を傷つける

 「みんなが具合悪くなるんじゃないかなと思えるからです」と言ったからには、その根拠を述べなければならないでしょう。あんまり長く書くと皆読まなくなってしまうので、ざっくり言うと、「肩書きだけで評価していると、相手を傷つけて、心を負傷した人が世の中に溢れてしまう」からです。あまりたくさんの例を出せませんが、一例として韓国語の話をしましょう。

韓国では毎年1万人の外国籍の人が帰化、つまり、韓国籍を取得しています。ということは、いわゆる私たちが今まで「韓国人」じゃないと思っていた人が「韓国人」になっているのです。親がもともと外国人でも、子どもが韓国生まれであれば韓国語が流暢でしょうし「韓国人」としてのアイデンティティを持っているかもしれません。でも、多分ですが、皆さんが「韓国語を使って話したい」という対象は「そういう人」を想定できていない可能性があります。もちろん私が勝手に思っているだけで、アフリカ系韓国人、フィリピン系韓国人とも「韓国人としてつきあって、韓国語で話したい」という人もいるかもしれません[6]。ですが、大多数の人はまだ、「自分が思う韓国人ではない人と韓国語を通じてつながる」ということを想像できないのではないかと思います[7]

日本にいる外国人に「日本語」で話しかけて友達になることもできるのですが、未だに外国人と話をするためには「外国語ができなければいけない」という考えも強いわけで、外国語で外国人と接しようとする人も多い。「言語=人種」みたいな肩書き神話は日本、韓国は特に強いなと感じています[8]。この「言語=人種」という肩書き神話は、酷いことになれば、「韓国に来て韓国人以外の人と韓国語で話すことは意味がない」みたいな思想につながるような気もします。スポーツの代表的な例で言うと「外国人横綱より日本人横綱のほうが意味がある」「ラグビー日本代表はほとんど日本人じゃないのに日本代表っておかしくね?」みたいな思想も同じです。その人の行動や人柄ではなくて、「であること」で判断し、排除することは人類の歴史上何度も繰り返されてきましたし、様々な悲劇も生んできました。「すること」で評価するのではなく、「であること」で評価することは時として人を傷つけるのです。

 

 

4.「であること」を乗り越えるために

  今の日本も韓国もまだまだ「であること」が根強い社会です。他人が自分を「であること」で評価するか、「すること」で評価するかは他人に委ねるしかありません。しかし、社会全体を変えられないとしても、個人が変わることはできます。まずは、自分の「行動」から変えてみるのはどうでしょうか。このような話の流れから行くと、「人を単純なものさしで評価するなってことでしょ?」とか、「外国人にも優しくすればいいんでしょ?」と短絡的な思想を植えつけてしまいそうなので、「考え方」を変えるのではなく、「行動」を変えてみましょうと提言したいと思います。正直な話、外見や肌の色が違うということは視覚的に完全に違いがあって、「日本語(韓国語)を話す肌が褐色の人に違和感を覚えてはいけない」と自分に言い聞かせたところで、感情をコントロールできるものじゃありません。自然にわきあがる感情は多少なりとも差別的な要素が加わります。

 ただ、自分から「すること」を他人に評価してもらおうと努力することはできます。例えば、自己紹介においても、ただ単に学校名、出身地、サークル、趣味の「であること」を並べるのではなくて、「だから何なのか」まで説明するということです。サークルで何をしているのか、何が楽しいのか、自分の趣味を楽しむためにどんなことをしているのか、地元で何をしていたのか、これから何をしたいのか。「すること」で評価してもらえるような自己紹介をしてみる。そして、他者に対しても、「すること」で評価する。私たちは、どうしても趣味、サークル、学校や企業名を聞いただけで、「かっこいい」とか、「ダサい」とかいろいろ評価しがちです。でも、「すること」を聞いてみたら、意外と全部がかっこよかったりします。沼にはまっている人には、沼にはまって聞いてみるのが一番です(by NHK)。韓国人っぽくない人と韓国語で話してみたら意気投合するなんてこともありうるのです。 丸山真男や夏目漱石以上に多様化していく社会で私たちは「であること」を乗り越えて、韓国人に韓国語が通じてうれしいではなく、中国人に韓国語が通じてうれしいと思える世界に期待したいなと思います。「韓国語を話す自分が韓国人にどう受け入れてもらえると、自分がうれしいか」という観点で言語を学ぶのは非常に大切なことです。

 

5.将来「何をするのか」

  ということで、「皆さんは将来何がしたいですか」というオチのために、長々と書いてしまいましたが、「皆さんは将来何がしたいですか」。「何をするか」という観点から今回は韓国語で話して見ましょう。

 *今回「であること」と「すること」で何か書きたいなあと漠然と考えて書いてみたものの、上手くオチが書けず、変な文章になってしまいました。1週間くらい考えて、3パターンの文章をそれぞれ4ページ分くらい書いたんですけど、書き終えられたのがこのパターンだったんですよね。


考えること

 1.皆さんの将来の「夢」は何でしょうか?「なりたい職業」ではなく、

「何がしたいか」で考えてみましょう。

2.それをするためには、「どんな能力」「どんな資格」「どんな環境」が必要でしょうか。

3.それをすることによって、「自分は」、「社会は」、「世界は」どのように変わるでしょうか。


講師の今日のオススメ

 私が多分一生ものの本だなと思っているバヤい本です。東畑開人(2019)「居るのはつらいよ―ケアとセラピーについての覚書」(医学書院)は、「居る」ことの難しさを教えてくれる本です。著者が大学院を出て、専門家として働こうと意気込んで就職した先で求められたことはただ「居る」こと。自分は臨床心理士で、患者のために「何かをする」ことが仕事だと思っていたのに、ただ「居る」だけなんて、給料泥棒なんじゃないか?看護師は自分のことをお荷物だと思っているんじゃないか?と自問自答しながらただ時間が過ぎてくれるのを待つ著者の心情をおもしろ可笑しく描いています。多分皆さんも将来、大学で学んだことを生かして働きたいと思っていても、職場で要求される仕事は、「専門性のない仕事だった」ということもありえます。そのような中で

「すること」と「居ること」にどう折り合いをつけるか(本作では、ケア杜セラピーをどう分けるか)、本を読んで対策しておくといいかもしれません。集団の中で「あれ、自分って居ても居なくてもいいんじゃね?」と疑問を持ってしまった時にも是非読んでおきたい一冊。

 小山宙哉×モーニング編集部(2012)「宇宙兄弟―心のノート」(講談社)は、漫画「宇宙兄弟」の名言集。宇宙兄弟は2年くらい前から読み始めましたが、「なんだこの本は!どこの話を読んでも名言ばかりじゃないか!」という強い衝撃を受けました。漫画は36巻まで出てしまっているので、後追いが少し大変ですが、小栗旬と岡田将生主演で映画化もされているので、まずはそこから入ってみるといいでしょう。

 主人公はいわゆる「天才」ではあるのですが、常に弟に先に行かれているというコンプレックスを持ち、宇宙飛行士になりたいという夢を諦めかけていた人物です。主人公が幼い頃から見守ってきたシャロンおばちゃんの「迷ったときはね、どっちが正しいかなんて考えちゃダメ。どっちが楽しいかで決めなさい。」という名言は、将来皆さんが夢を諦めかけるようになった時、きっと役に立ってくれるでしょう。


[1] 丸山真男(1961),「『であること』と『すること』」,『日本の思想』,岩波書店

 難しい本ですが、日本文化論に興味がある学生は是非読んでください。

[2] 夏目漱石は西洋社会に適応するのに苦しんだのか「ノイローゼ」になったと言います。その鬱状態のリハビリのために小説を書き始めたというようなことをどこかで聞いた覚えがあります。

[3] 要するに、100年以上前から「時代が変わる」「これからはグローバル化じゃ」「外国語が必要じゃ」みたいなことを言い続けているにも関わらず、「今は昔と違いグローバル化する」「これからは英語が必要だ」みたいに、『これからの時代は』が脈々と受け継がれつつ、何も変わっていないのが日本国という国でもあります。英語教育において「グローバル化だから『使える』英語が必要」と叫ばれ始めたのはもう50年前の話です。それにもかかわらず、「使える」英語は浸透したんでしょうか。というより、そもそもそんなに国民みんなが外国語を必要としているのでしょうか?ってことから考えたい。

[4] 相続資産が天文学的数字だと「ああ、この人は何でも手に入れられるだろうな。うらやましいな。俺もお金ほしいな」とはなってしまいます。

[5] 「俺韓国語ができるよ」という人がいたとして、一瞬「いいなぁ」となるかもしれませんが、その韓国語を使って韓国人に悪態を吐いて街をはいかいしていた場合、当然「韓国語ができること」という評価も変わってきます。

[6] 2PMというアイドルグループには韓国籍ではありませんが、韓国語話者のニックンというタイ人の父、中国人の母を持つメンバーがいますが、日本のファンは彼と交流するためにタイ語や中国語を使うのではなく、多分韓国語を使っていると思われます。

[7] また、「韓国人と韓国語が話したい」といっても、コミュニケーションが難しい障害者を含めて「韓国語が話したい」と言っているでしょうか。生きていれば偶然、障害を持つ人と韓国語でコミュニケーションをとるという場面があるかもしれませんが、それを最初から想定している人は少ないと思います。

[8] 留学経験があると、いろんな国から集まって一つの言語を学び、その言語が共通言語となって、「英語=アメリカ人」とか、「日本語=日本人」のような図式から解放できるのですが、皆がみんな留学するわけじゃないですからね。

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