2018.11.19函館教育大学韓国語授業資料「わかりあえないことから」

中間評価を前に~わかりあえないことから~

今日は「それっぽい」副題をつけてみました。「わかりあえないことから」というのは、劇作家の平田オリザさんの「わかかりあえないことから」(講談社,2012)[1]をそのまま拝借しました。この本のはじめのほうで平田オリザさんは、「わかりあえないことから出発するコミュニケーションというものを考えてみたい。そして、そのわかりあえない中で、少しでも共有できる部分を見つけたときの喜びについても語ってみたい。」と言っています。人との会話はわかりあっているようで、実はわかりあっていない。わかりあえる、わかりあえていると思い込んでいるから、コミュニケーションに問題がおこる。であれば、最初から、「わかりあえない」という前提から出発してコミュニケーションを捉えなおしてみたほうがいいのではないか。そう提案しているのです。

平田オリザさんは以前、「NHKのニッポン戦後サブカルチャー史シーズンⅢ第2回」(NHK,2016)でこんなことを語っていました。

―「私は歯が痛い」という台詞に対して現代演劇の観客は納得しない。なぜならば、「ああそうですか」としか答えようがない主観的な命題だからだ。・・・作家や役者がいくら痛みを主張しても現代の観客はその痛みを共有できない。・・・そこで代わりに、「彼は歯が痛いらしい」「歯が痛いんだって」という第三者からの客観的な台詞を連ねて感じさせる手法をとった。―

人が発する言葉というのは、その人が感じている「感覚」をそのまま伝えられるものではないから、「痛いらしい」「痛いんだって」と第三者に語らせたほうが、より現実に近い演劇になるということらしいです。どこかひねくれている感はぬぐえませんが、「演劇をよりリアルに」と追究した結果こうなったようなのです。確かに、「ことば」は、どのような語であれ、他者が同じように理解しているとは限らないし(/inu/という音声を聞いて、飼い犬のポメラニアンを思い出す人もいれば、ソフトバンクのお父さんを思い出す人もいます。)、同じように解釈していると思い込むことで、「何でわからないの」「何で共感してくれないの」という言い争いになるのはしょっちゅうです。そうなるくらいなら、「わかりあえない」という前提に立って、「何でわかりあえないんだろうね」と共有できる部分を見つけるような対話を継続していったほうが、平和な気もしてきます。

そう考えると、真のコミュニケーションとは、「相手のことばが理解できないことを前提に、相手を理解しようと努力できる力」ということになるんじゃないかと思います。皆と仲良くできるとか(そもそもどんな人とも仲良くなれるなんて虚構ですけど)、リーダーシップを発揮するとかっこいい(リーダーが脱線しないように保佐する役もかっこいいですよね)とは思えますけど、人間は心の中で他人を呪いながら仲良くできるし、自分の利益のためだけにリーダーシップを発揮できる人もいるわけで、そんなのを「コミュニケーション能力が高い」と呼ぶのであれば、私はそんなコミュニケーション能力はいらないなと思ってしまいます。むしろ、不器用かもしれませんけれど、「人の心がわからない、わからない」と言いながら人に寄り添うとか、言い争いながらも対話を続けられる人になりたいなと思います。

ということで、口頭試験に限らず、教室内の生徒同士での会話練習では、初対面でなくても、お互いわかったつもりにならずに、いろいろ質問をぶつけ合えるといいなと思います。「学生です」という語を聞いた、または発したからといって、両者全く同じような学生のイメージを想起できるわけでもありません。もしかしたら、教育大に未来大生が聴講しにきているかもしれないわけで、聞き手は、「教育大にいる学生」だからといって、「全く自分と同じ立場だ」と思い込んでいてはいけません。また、「学生」という語を発した生徒も、「相手はどこまでこの『学生』という情報で、自分の属性を理解できたかな」と相手の理解度を考慮しながら話をしなければいけないと思います。尋問のようになったり、要らない情報を積み重ねる必要はないのですが、「わからない」と思ったことや相手に必要だなと感じた情報を提供したほうが、会話は続いていきます。このような点に注意しながら普段から会話練習をしてみてください。もちろん、韓国語での会話ですから、「韓国語の語彙・文法、表現」が頭の中に入っているのが前提ですけどね・・・。

 

<コミュニケーション能力ってなんだ?~キー・コンピテンスを乗り越えるために>

「コミュニケーション能力」という語は、うんざりするほど世の中に溢れていますけど、今日の話では、「相手のことばが理解できないことを前提に、相手を理解しようと努力できる力」という定義で使わせてもらいました。おそらく言語教育分野の方は、コミュニケーション能力と聞くと、デル・ハイムズやカナルとスワインのコミュニケーション能力を想像すると思います。障害者支援分野だと自閉症診断で測られるコミュニケーション能力を想像するのではないでしょうか。それはそれで学術分野では歴史も長く、論文に引用された回数も多いので、権威ある語だと思います。だけど、そろそろ面白い定義が出てきてもいい頃なのにとも思っています。そもそも、コミュニケーションとは「相手がいてはじめて行える行為」なのですから、一個人だけに「コミュニケーション能力がある/ない」と判定している時点でおかしいと思います。コミュニケーションは、二人でワンセットなはずです。だとすれば、二人のコミュニケーションする状況を含めた評価がなされてこそはじめて、判定できるものなのではないでしょうか。それは外国語会話テストの時も同じだと思います。テスター(試験官)が相手に興味を持てなくて、相手に質問をあまりしないとか、回答者の興味がないことばかり話させようとすれば、回答者は当然答えられません。回答者がテスターを「敵」ともまでもいかなくても、緊張を強いられる人物であれば、会話は弾まないでしょう。そうすると、会話サンプル(口頭テストで得られる、回答者がどれくらい外国語を話せるかという評価を下すための情報)は、十分に得られません。会話サンプルが十分に得られないと正確な点数が付けられず、評価不能となってしまいます。テスターも頑張りますから、ぜひ皆さんも話す努力をしてください。


[1]言語教育者を目指す人は、平田オリザさん関連では是非『鎌田修・嶋田和子編著、平田オリザ・牧野成一・野山広・川村宏明・伊東祐郎著(2012)「対話とプロフィシェンシー」凡人社』を読んでみてください。

 


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