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レオ・レオニ「フレデリック」が教えてくれた、人生を支えるアートの正体

「レオ・レオニ」という作家、あるいは「フレデリック」という絵本をご存知でしょうか。どちらも馴染みがない方でも「スイミー」と聞けば思い出すことがあるかもしれません。

さて、著名な作品には多くの教訓が存在するもの。この「フレデリック」も例外ではないのですが、世間で言われる教訓とは共通項を持ちながらも「ちょっとだけ違う教訓」を僕は感じました。

この記事では僕が「フレデリック」から感じた「生き方」について書き連ねてみたいと思います。


01.「フレデリック」のあらすじ

絵本を読んだことがない方の向けに、ざっとあらすじを紹介しましょう。

ある牧場に住んでいる「のねずみ」たちの物語。

間もなく冬を迎える彼らは、無事に冬を越すために食料や藁を毎日必死に集めている。ただ一人、フレデリックを除いて・・・他の「のねずみ」たちが必死に働いている間、フレデリックは一見何もしていません。

例えば、こんなやり取りが・・・

「のねずみ」はフレデリックに質問します。「どうして きみは はたらかないの?」と。フレデリックは答える「さむくて くらい ふゆに ひの ために、ぼくは おひさまの ひかりを あつめて いるんだ」・・・万事こんな調子です。

やがて冬を迎え「のねずみ」達は隠れ家にこもります。最初は食料も十分にあり楽しく過ごしていました。しかし、いつの間にか食料も藁もなくなり寒さで凍えそうになります。

そんなとき、のねずみたちは思い出します。フレデリックが「ひかり」「いろ」「ことば」を集めていたことを。それがどんなものだったのかを問いかけます。

フレデリックは自分が感じた「ひかり」や「いろ」や「ことば」を、他の「のねずみ」たちにまずで詩のような言葉で伝えます。「のねずみ」たちはフレデリックの言葉から生まれるあたたかなイメージに喝采を送るのでした・・・

と、少し乱暴に紹介するとこんなストーリーです。空気感は、まったく伝わっていないと思いますのでぜひお手に取っていただきたいところ。

この作品のテーマとしてよく語られるのは【アート、あるいは普遍的な美しいものを感じ取る力が生きる力に結び付くものである】ではないでしょうか。

私もほとんど同じような教訓を感じました。しかし、実はこの「アート」の捉え方がちょっと異なるのです。今日お伝えしたいポイントはソコ。



02.アリとキリギリスとは異なる

「冬に向けて、せっせと準備を進める」
と聞くと真っ先に思い浮かぶのはイソップ童話のアリとキリギリスではないでしょうか。

敢えて説明は必要ないでしょうが「アリのようにコツコツと働くこと」を称え「キリギリスのように遊んで暮らしているとヒドい目に合う」という教訓を伝えようとする作品。ほら、「冬」「食料」「真面目に働く」みたいなキーワードが共通していますよね。

しかし、「アリとキリギリス」と「フレデリック」は根本的に異なります。

フレデリックは決して遊んでいるわけではありません。本人は大真面目に来るべき冬に備えているのです。

他の「のねずみ」たちが食料を集めている間、フレデリックは「ひかり」や「いろ」や「ことば」を集めています。しかし、それは決して他の「のねずみ」たちから理解されません。その証拠に他の「のねずみ」たちから「どうして きみは はたらかないの?」と問いかけられています。



03.「のねずみ」達は、フレデリックを否定しない


とは言え、他の「のねずみ」たちはフレデリックを否定しているわけではありません。(決して肯定的というわけでもなく、現に「少し腹をたてて」という描写もあります)

しかし、直接的に他の「のねずみ」たちはフレデリックの行為を否定しないのです。

冬が訪れたあと、フレデリックは一切食料集めを手伝わなかったにも関わらず他の「のねずみ」たちと同じように食事や会話を楽しんでいる状況が描写されています。

さて、このシーンを現代社会や自分たちのコミュニティに置き換えてみましょうか。

近いうちに「確実に訪れるであろう危機」があると想像してみてください。皆が一丸となって準備を推し進めるなか、ただ一人だけ理解できない主張を繰り返し、その作業を手伝わない者が集団にいたとしたら・・・

きっと我慢できない方も多いんじゃないでしょうか。多くの人が同じように不満を感じるはずです。まして「冬が来たときに食料を同じように分けるなんてトンでもない!」って思いそうですよね。

アリとキリギリスの原作では、キリギリスはアリに食料を分けてもらえず餓死してしまうようです。フレデリックが同じような教訓を語ろうとするならば、フレデリックも他の「のねずみ」たちから爪弾きに合い飢えてしまうはず。しかし、そうはならなかった。

「のねずみ」たちは若干の呆れを感じながらも、フレデリックが主張する「冬の備え」を受け入れていた。そう言えるのではないでしょうか。

そして、そんなフレデリックの準備が凍える「のねずみ」たちの希望になったのです。



04.「のねずみ」たちを一人の人格として捉えてみると


私は、この「のねずみ」たちの集団を一つの人格であるように捉えました。だから、誰のなかにも「のねずみ」と「フレデリック」が存在するはず。

さて、多くの現代人は「意味のある行為」に縛られて生きています。フレデリックの存在を許さない強迫観念のようなモノさえ存在しないでしょうか。

意味のない行為は咎められる。何のためにその行為を行うのかが問われる。普段の生活ならまだしも、ビジネスの場においては特にこの傾向は顕著になります。そう、ビジネスの場においてフレデリックは存在を許されません。

しかし、「のねずみ」たちの生存においてフレデリックが果たした役割は重要です。フレデリックがいないことなど飢えた「のねずみ」たちには考えられないでしょう。

意味のある行為に縛られた「のねずみ」たちは、一見すると意味がないと思われる行動を取っていたかのように見えるフレデリックに救われたのです。



05.のねずみを救ったのはアートなのか?


だからと言って、短絡的に「人生においてアートが大切なんだなぁ」と捉えたワケではありません。いや、アートが大切なことは理解していながらも「言語化できないモヤモヤ」を感じていたのです。

このモヤモヤは、実は一冊の書籍が明確にしてくれました。佐宗邦威氏の「直感と論理をつなぐ思考法 VISION DRIVEN」という書籍です。

確証バイアス的に書籍の内容を受け止めている可能性も否定できませんが、佐宗氏の表現する「他人モードにハイジャックされた脳」や「目的の難民たち」といった表現は「のねずみ」たちとリンクします。

そして、フレデリックは「有用性から解放された人生芸術の山脈」という表現とリンクします。書籍の詳細を説明することはここでは避けますが、ぜひ多くの方に読んでもらいたいと思う一冊です。



06.表現手法としてのアートではなく、人生芸術の山脈を大切にする


で、結局何をモヤモヤと感じていたのか。

フレデリックの教訓として「アートが大切だ」「アートに触れることは生きるチカラに繋がる」ということが謳われていることが多いように感じます。ここの「アートが指すモノ」にモヤモヤを感じていたのです。

アートと聞くと表現手法としての「アート」がイメージされることが多いです。絵画、彫刻、身体表現、様々な表現手法がありますが、それはあくまでもアートの一側面でしかありません。

個人の内に宿る想い、衝動、思想、ポリシー、反応・・・などなど様々なものが、絵画、彫刻、身体表現といった表現手法をとおしてアウトプットされているにすぎません。

個人の「内側」で何が起こり、それを「外側」に向けてどんな表現でアウトプットしているのか。その「過程」や「プロセス」に目を向けることこそアートと言えるのではないでしょうか。

私は、アートとは決して絵画・彫刻・身体表現といった「手段」を指す言葉ではないと感じています。

もしかすると言語かもしれない、プログラミングかもしれない、個々人のコミュニケーションかもしれない。自らの内に宿る一種の衝動であり、でも普遍的に自分のなかに存在するものでもあり、時としてそれは「志」と表現されるものに姿を変える。

ここで、佐宗氏が表現した「人生芸術の山脈」という言葉がスっとハマったのです。

ただの表現手法としてのアートが大切だと伝えているのではない。自分自身にとっての、人生芸術の山脈がどんな姿であるのかを捉え、その山脈に登ろうとする一連の行為こそがアートと呼べるのではないだろうか。そんな思考変遷のトリガーになった言葉でした。

あなたにとってのアートとは何でしょう。あなたにとっての人生芸術の山脈とは何でしょう。

つらい冬を、灰色の世界に身を置かなければいけない状況にあっても、それがあることで折れずにいることのできる光とは何でしょう。それは「志」だったり「ビジョン」だったり、もっと極端な表現をすると「本能」と呼べるものなのかもしれません。

フレデリックが大切にしたアートとは、単に美しいものを捉える力のアートではなく、「のねずみ」たちが生きる活力たるアートだった。意図的だったのか、本能的だったのかは分かりません。しかし、フレデリックは自分の感性に従って「ひかり」や「いろ」や「ことば」を集めたのです。



07.フレデリックのオチ


しかしこの絵本は最終的に「のねずみ」たちが、冬を無事に越せたのかどうかという点については言及されていません。

物語はフレデリックが「のねずみ」たちを勇気づけ喝采を浴びるところで終わります。だから、最初にこの本を読んだときにはズッコケました。えっ・・・!?結局どうなったの・・・!?と。

当たり前ですが「のねずみ」たちが集めていた食料は生きていくうえで欠かすことのできない要素です。

アートが大切だとは言いながらも、生きる糧よりも重要だと言っているわけではありません。だから、「フレデリック」と「のねずみ」たちは、トレードオフの関係性であってはならないのです。

多くの人のなかにいる「フレデリック」に目が向いていない現代だからこそ、フレデリックの行為に目を向ける重要性に気付いてほしい。しかし「のねずみ」たちの行為も当然生きていくには必要。

だから、両者が正しく共存できている関係性を目指す、これが個人も組織も必要なのでしょう。

企業において売上は企業の存続において必要不可欠なもの。しかし売上を上げること自体が目的にはなり得ない。こんな言葉を思い出します。

もしかするとフレデリックと「のねずみ」たちの関係性のように、否定されないぐらいの関係性で共存しているぐらいでよいのかもしれません。「昼行燈、転じて暗夜のかがり火」こんな言葉も思い出しました。

ここで、もう一度フレデリックの姿をよく見てみます。花を手に持つフレデリックは愛らしい。

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そう、フレデリックは愛らしいのです。人生芸術の山脈は、きっとその個人が愛らしいと感じるものでなければ存在できないのでしょう。誰かから強制されるものではない、「自分の内なる言葉に目を向ける」ということなのかなと感じています。

強引に組織に置き換えてみると「組織の人生芸術たるビジョンはその構成員にとっても好ましいものと受け止められるものでなければならない」と言えてしまうかもしれませんね。

とっても、とっても深読みしてしまった、「フレデリック ちょっと かわった のねずみの はなし」でした。ぜひお手に取ってみてほしいと思います。



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