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自分の美醜観と他人の美醜観が対立したときに

今んところ自分の中で明確な答えがないヤツです。

変な言葉を作っちゃいますが、人それぞれに「美醜観」みたいなモノがある。この対立をどう捉えたらイイのかぁってポイントでぐるぐるしているのです。

自分が美しいと感じるモノ、自分が醜いと感じるモノ、それぞれに皆さん何かしら持ってるんじゃないでしょうか。「モノ」と表現しましたが物体だけに限りません。行為・仕組み・空気、ここで指すモノはめちゃくちゃ広い範囲です。

で、これが他人と一致している時は問題ないですよね。

「自分が美しいと思うモノ」と「他人が美しいと思うモノ」が一致していれば、そこに存在するのは肯定的共感です。とてもステキ。コレが一番イイ。

「自分が醜いと思うモノ」と「他人が醜いと思うモノ」が一致していれば、否定的共感が生まれます。割と既存のモノに対するアンチテーゼになりがちなのですが、それでも社会を動かすエネルギーになることも事実です。そのコントロールだけうまくすればいい話しですね。

問題は「自分の美醜観」と「他人の美醜観」が対立したときです。

「自分が美しいと捉えているモノ」を「相手は醜いと捉える」状態。
あるいは「自分が醜いと捉えているモノ」を「相手は美しいと捉える」状態。

「ああ、そういう考え方もあるよなぁ」と考えられるのであれば、それが一番理想的な「多様性」の姿なのかもしれません。でも、そうはならないことが多いなぁと感じています。

美醜観の対立は相手を「蔑む」「見下す」「軽蔑する」「忌避する」「愚か者と決めつける」「レッテルを貼る」といった状況にメチャクチャ近づきやすいと感じるのです。僕も同じ、そうなりやすいと思う。

美醜観って自分の価値観の奥底にある声だと感じています。だからこそ、ココが対立してしまうと「両立」が考えられない状況になりがち。スッと距離をとるのがスマートなのかもしれません。自分単体で考えればそれで成立する。でも社会全体の多様性を考えたときにそれで成立するんだろうか?とも思うのです。

一人の人間が「社会全体の多様性」だなんて大それたこと考えても意味がないのかもしれませんが、自分にとっては「社会」と「自分」が地続きである以上、考えざるを得ないテーマです。

アプローチが「仕組み」なのか「マインド」なのかは分かりません。でも、「自分だけが」ともなりきれない。余計なことを考えちゃってるのかもしれませんが、考えないって選択肢がないんですよね、今のところ。

また、実際にそんな状況に自分が身を置いたとき、どんな自分でいるかだけでも考えておかなきゃなと思うのです。

自分が美しいと思うモノを他人が醜いとみなしたときにどうあるか。
他人が美しと思うモノを自分が醜いとみなすときにどうあるか。

「そういうこともあるよね」を超えてしまいそうな、美醜観の対立にどう向き合うか。何にも答えはありません。まだ。

多様性を考えるって難しい。まだ「自分にとっての多様性」を考えることはできたとしても、「社会にとっての多様性」を考えるのは尚のこと難しい。でも、ここは考え続けたいと思うのです。僕の中で考えることを放棄しないテーマです。

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