還暦前の気付き ② 振り返り(前半)

もうすぐ還暦を迎えるにあたって、今まで信じていた事が、「実は大間違いで真逆だった」のを気が付いた例を連載でシェアさせて頂き始めましたが、今回は、その2例目の前半です。

実は、一昨日の晩、生まれて初めてオンライン講演会をやらせて頂いたのですが、お陰様で約15ヵ国から合計500名以上のお申込み者数だったそうです。その際に頂いた御質問の回答を2例目として御紹介させて頂きたく。

御質問は、「武内さんは、いろいろな国で生活し、さまざまな組織で共存していらっしゃいましたが、何を結果を出すために外国人の部下のマネジメントも含めて心掛けて、心折れずに高いエネルギー/やる気を維持されてこられたのでしょうか?」って感じだったかと・・・。

折角のいい機会なので、小生の幼少の頃からその成長および社会状況の変化につれ、何が小生のエネルギーの源泉(動機)になってきたかを振り返らせて頂きたく。

小生と個人的に親しい方は御存知かと思いますが、小生には、極めて優秀な1つ年上の兄がおります。幼少のころは、母が教育熱心で、うまく兄弟の育児方法を使い分けてくれ、殆どグレずにすみました。それは、今回の講演会の直前に読んだ「座右の書『貞観政要』」(出口治明著)から引用させて頂くと、兄には「鉄タイプ」で、小生には「瓦タイプ」で接してくれたからなのかと。前者はプレッシャーをかけると、鉄よりも強い鋼に変わりますが、後者は割れて土くれになってしまうので、じっくりと育てた方が伸びるのだそう。これを逆に間違えると大変な事になってしまいます。勿論、「ゆとり教育」などの各時代による社会状況にも左右されると思いますが、もし、このnoteの読者の中に学校の先生がいらっしゃった場合、くれぐれも生徒さんの気質・性格には気を付けてあげて下さい。(そもそも先生が、別人格の兄弟を年子とはいえ比較して「叱咤する」なんてよろしくないです。)そして、この使い分けは社会人の部下の育成にも必要であると確信致します。さて、果たしてロボットやAIも将来この使い分けができる様になるのでしょうか・・・。

話が脇道にそれてしまいましたが、幼少期は、お陰様で、上手く「おだてて」育てられ、毎日を楽しく過ごせていたと記憶します。小学校2年生以降は父の仕事の関係でフィリピンにおりましたので、日本語の本が貴重でしたが読書は割りと好きだったかと・・・。同時に、異国の文化への抵抗感も自然に低減しておりました。帰国した中学校・高校は、既に兄とは別人格と自他共に認識し始め、また時代の流れもあり、塾通いの一般の「受験戦争」に巻き込まれておりました。ただ、高3になった頃、兄がストレートに希望大学に入学したせいもあったのか、亡父が、「武内家は代々、長男は帝大から英国の大学院に、次男は若い内から米国の学部に留学する例が続いているので挑戦してみるか?」と提案してくれ、高校の先生方のお力添えもあり、なんとか米国のリベラル・アーツの名門大学のWilliams Collegeに入学できました。ただ海外の大学は、成績が悪いと退学になり、そうなるとヴィザの関係で日本に帰国するしかないので、この頃のアカデミック・プレッシャーは、まだティーン・エイジャーには相当キツかったです。ただただ単位を落とさない様に必死な毎日でしたが、3年の後半から少しずつ、やっと、「もしかして勉強って面白いのかも?」と気付きだしたのは、経済学と社会心理学を補完しあった卒論を書きだした頃でした。今でいう「行動経済学」の走りです。同時に異性にモテたいって感情の芽生えも必死に勉学に頑張れた理由かと。(単位取得以外に得難いリベラル・アーツならではの経験(一生の寮友達との交流と、「ホットな折れない心とクールで切り替え可能な頭」の習慣による刷り込み原体験など)の有難さを知ったのは、卒業してしばらく経ってからでした・・・。)

就職活動も、商社・銀行・メーカー・証券の各業界の有名企業1社ずつバラバラに内定を頂いた様に、まだ日本社会(特に日本の各業界のユニーク性など)を知らない、帰国子女の単なるブランド志向の強いミーハー青年でした。せいぜい、「有名な大きな企業に入って、親を安心させたい」との気持ちで、その頃は、まだベンチャーなど全く考える時代(特に日本では)ではなかったと記憶しております。ただ、ここでも「今後は、銀行よりも証券(インベストメント・バンカー)が面白い」との亡父からのアドバイスの影響が大きかったのは確かです。今振り返ってみますと、亡父は「昭和のモーレツ仕事人間」でしたが、小生にとってはかけがえのない「メンター」でした。入社直後にたまたま配属されたのが調査部で、その担当業種が住宅・不動産・建設・電鉄など、正にバブル期のコア・セクターだった為、文字通り寝る時間がない程、多忙を極めておりました。今、世間では「ブラック企業」とか言われておりますが、当時は、セブン・イレブンでも甘く、実際は、「朝6時から午前1時過ぎまでオフィス」なんて日もよくありました。(まだメールもなく、ファクス中心で、国際電話もコストがかなり高かった時代です。)でも、自分の作成した英文調査レポートが世界の機関投資家に対して、日本企業の理解に役立っているかもしれないとの満足感は大きく、逆に「夜8時以降は全社消灯で、早く帰宅する様に!」と言われる時代でなくて本当によかったと今でもつくづく思います。夜な夜な残業の安ラーメンをすすりながら先輩アナリストから色々と教えて頂いた経験は実にありがたく、新たな仕事へのエネルギーになりました。勿論、レポートの数字の桁を間違えて、修正液で徹夜で修正しなくてはいけなかった時は、さすがに「こんな会社、辞めてやる」と思いましたが・・・。

調査部の後の海外での営業の時も、同期に業績の数字で負ける悔しさも思い知りつつ、それ以上にお客さんとの関係で頑張れました。なんか血液型的にも、星座占い的にも、ちょっとでも褒められると頑張れるタイプの様です・・・(笑)。たとえ小さな目標でも、自分が進歩して、よりプロフェッショナルな仕事ができる様になっていく「達成感」が嬉しく、また「より一層、頑張る」との職業的には好循環を、悔し涙をのみ、歯を食いしばりながら毎日繰り返しておりました。でも、仕事の達成感が、プライベートでの自己肯定感に直結していたのも紛れもない事実です。自分の仕事にプライドと自信を持っている男性は異性も魅了できると、ここでも好循環になり得ました。最後に勤めた外資系金融機関では、念願の社長にもなれ、部下の育成も、部下の気質・性格を見極め、伴走しながら達成可能な目標を設定し、叱咤激励しつつチームの一体感を高め、目標達成の快感を分かち合うように心がけておりました。これは社会人になってから十数年経って気が付いた事ですが、大学で修得したコミュニケーション能力、ストレスコントロール力、協調性、主体性、チャレンジ精神、熱意などを修得させるリベラルアーツ教育があってこそ実現可能だったと確信致します。(この段階で既に、出世欲や金銭欲よりも、チームプレーと社会に対する「利他」の気持ちが少しずつ芽生えてきておりました。)

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