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【映画解釈/考察】『バードマンあるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡) 』(2014) 「ロラン・バルトの白いエクリチュールと空に溶け込むバードマン」

『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』(2014)  アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督


 本作は、アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督の、アカデミー賞作品賞、監督賞、脚本賞などを獲得した2014年の作品です。アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督といえば、『アモーレス・ぺロス』や『バベル』などの群像劇が多いイメージでしたが、本作を含め『BIUTIFUL ビューティフル』『レヴェナント:蘇えりし者』など最近の3作は一人の人物に焦点を当てたものとなっています。ただ、本作は、ほかのイニャリトゥ監督の作品と比べてかなり異色な作品になっています。端的にいえば、イニャリトゥ監督の特色である全体的に暗鬱でシリアスな人間ドラマには該当しません。廊下などを利用した長回しや繋ぎの多用、派手な効果音などの表現の特色の違いもありますが、根本的に会話が多く、抽象的な内容になっています。もちろん、イニャリトゥ監督の鋭い人間への冷静な眼差しをベースにはしていますが、大手資本の制作・配給を含め、これまでにない異質なものを積極的に受け入れており、映画監督としての高度な器用さを改めて証明しています。ハリウッドや、また、対極のブロードウェイも含めた資本主義社会全体を、痛烈に皮肉っているのにも関わらず、それら全てを、作品の中に大胆に織り込み、見事に芸術作品として昇華することに成功しています。脚本が、良く練られていると考えられる本作を、以下に考察します。





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1.ロラン・バルトとエクリチュール



  本作で最も気になるのが、ラストの場面です。どうしてあの終わり方が選択されたかということです。そのヒントになると考えられるのが、主人公である俳優のリーガン・トムソンが取材を受けている場面で出てくる、フランスの哲学者ロラン・バルトです。ロラン・バルトは、大学で文学を学ぶときによく登場しますが、特に重要な言葉として出てくるのが、エクリチュールです。



  私たちが、何か言葉で表現しようとするとき、言いたいことをそのまま言っているのではなく、かなりの制約を受けています。バルトは、『零度のエクリチュール』で、まず2つを挙げています。1つが「ラング」で、これは母国語の語法や文法の制約を受けるということです。そして、もう1つが、「スティル」で、これは個人の性格や経験によって生じる語法や口調です。



  そして、これらとは別に、私たちが選択できるものとして「エクリチュール」を挙げています。「エクリチュール」とは、バルトによれば、選択できる様式のことで、例えば日常生活において、私たちは「政治家の言葉」、「学校の先生の言葉」「高校生の言葉」など所属している集団や理想とする集団の言葉の様式を選択して使用しています。映画の中でリーガンは、ブロードウェイの舞台おいて、リーガンが役者を目指すきっかけになった「レイモンド・カーヴァー」のエクリチュールを選択したわけです。



   そのエクリチュールの選択を邪魔する存在が「神話」です。ここでいう「神話」とは、多数を支配する世界の解釈のことを言います。また、「神話」は、二重の記号的解釈を持ちます。例えば、映画の中で、リーガン・トムソンというオブジェは、アメコミのヒーローであるバードマンとしてのシニフィエ(記号が意味する内容)を持ちます。さらに、そのアメコミのヒーローは、ムービースターの代名詞=シニフィエになります。映画の中で名前が挙げられているマイケル・ファスベンダー、ジェレミー・レナー、ロバート・ダウニー・ジュニアといった実力派のハリウッド俳優も全員アメコミのヒーローを演じていますし、実際、リーガン役のマイケル・キートンはバットマン、マイク役のエドワード・ノートンもハルクを演じていました。記者のいうアメコミのヒーローも洗剤のCMも、興行成績や売り上げといったお金に換算できる資本主義社会の「神話」の一部となっています。

  また、新しいエクリチュールへの移行の前に塞がっているのは、これだけではなく、自分が特別な存在でありたいという「スティル」も影響し、リーガンはこの2つの狭間で、心を病んでいきます。



  さらに、エクリチュール自体にも問題があります。たとえ、リーガンが「レイモンド・カーヴァー」のエクリチュールに移行できたとしても、その瞬間に、「レイモンド・カーヴァー」のエクリチュールに支配され、表現者・芸術家としてのリーガンは存在しなくなります。



  サムは、父親であるリーガンに「特別な存在」だと言われたのにリーガンが実際には家にいなかったことから、自分の存在に自信が持てなくなってしまったというエピソードにもこれが、適用されます。リーガンは、「特別な存在」というエクリチュールに囚われたままで、表現者としては何もしなかったという解釈です。そのことから、サムは「真実か挑戦」ゲームにおいてマイクに対して真実を言った後にすぐに挑戦(表現)を求めます。



  また、女優のローラとレズリーとのキスもこれに相当します。舞台のプレビューまでの半年間、マイクとの体のシェアがなかったローラを「あなたは美しい」と言って慰めた後、すぐにそれを表現しているわけです。また、感情をすぐに表現する女優として描かれているレズリーは、典型的なエクリチュールに囚われている恋人のリーガンに対しては、「つまらない男」と言い放ちます。




  そもそも、映画中の舞台で演じている話が「愛について語るときに我々の語ること」なわけですが、私たちが愛について語るときは「愛」のエクリチュールに囚われていて、本当の愛は別のところで表現されるものと解釈できます。リーガンの元妻のシルヴィアも、離婚の原因にリーガンの「愛」の言葉への疑念を挙げています。








2.「白いエクリチュール」と「作者の死」



  バルトは、作家・芸術家(表現者)に『零度のエクリチュール』で「白いエクリチュール」を求めます。「白いエクリチュール」とは、今までの表現様式や世界の解釈に囚われない新しいエクリチュールのことを指します。映画の中でも、俳優のマイクが、リハーサルの時に、脚本の言葉を書き直すように求めます。


  ただ、ロラン・バルト自身が、こうも指摘しています。たとえ、新しい表現様式である「白いエクリチュール」を獲得しても、獲得した瞬間に、新しいエクリチュールの様式に囚われてしまうというものです。実際、映画の中で、リーガンが、バードマン(現実世界ではバットマン)は、当初はイカロス的存在だったと述べています。これは新しい様式だったが、今では、主流の様式としてハリウッドを支配していることを意味します。



  では、「白いエクリチュール」のようなものは、いかなる時に可能になるのかまたは、どのようにしたら近づくことができるのかを考えなくてはなりません。バルトは、有名な『作者の死』で簡潔に要約すると以下のような「テキスト(テクスト)」論を展開しています。



  そもそも新しいエクリチュールとは、過去のエクリチュールを混ぜ合わせて作られたものであり、多くのエクリチュールを編み込んでできた「テキスト」(もともとは織物の意)は、それぞれのエクリチュールが自己主張することによって、エクリチュールの起源(オリジナル)を失うというものです。

  つまり、これまで、エクリチュールの起源を支配すると考えられていたのが、「作者」だったわけですが、その「作者」を消失させることで、「テキスト」の解釈(コード)が一義的にならずに済み、エクリチュールに囚われることから逃れることを可能にしたわけです。



  マイクは、「スティル」に支配されない、「テキスト」のエクリチュールの1つに徹することが出来る俳優・表現者として描かれ、小道具をリアル(現実)にすることを求めるのは、上のようにエクリチュールの自己主張を担保することが目的であると解釈することができます。



   また、バルトの『テクストの快楽』において「作者の死」についての有名な表現があります。それは、「分泌物の中で溶解する蜘蛛のように」主体(作者)を解体するというものです。 そしてこれによって「作者」はバルトの言うただの「書き込む人」となり、解釈を収斂させるのは「受け手」(「読者」「観客」)に委譲されます。



  このバルトの「テキスト」論を究極化したのが、映画の中にも出てくるウェブ(蜘蛛の巣)上での動画(テキスト)の拡散です。裸のまま劇場の裏口から追い出されてしまったリーガンは、意図しない形で、見知らぬ人たちの注目の的となり、投稿され、さらに見知らぬ人々に拡散されてしまします。リーガンは、エクリチュールの起源を失った状態で、ムーブメントを起こし、観客を呼ぶことに成功します。



  しかし、まだ、「テキスト」に敵対する者が存在します。それが、「批評家」です。「批評家」は多義的な「テキスト」に「作者」を復活させ一義的な解釈を与える存在だからです。映画の中でも、批評家のタビサは、リーガンがハリウッド映画の役者=偽物の役者という「神話」によって、リーガンの舞台に酷評を与えようとします。


3.  新しいエクリチュールと空に消えたリーガン



   そして、奇しくも、リーガンは追い詰められたことにより、現実世界の自分と舞台の中の主人公を無意識のうちに一致させ、本物の銃を自分に向けて撃ってしまいます。そして、奇跡が起きます。


   これを見て、「作者」から解釈の権限を委譲された「観客」は一瞬動揺しますが、すぐに一斉にスタンディングオベーションで反応します。これに対して一人だけ、慌てて去っていく女性がいます。それが、「批評家」のタビサであり、不本意ながらも「スーパーリアルの新しい様式」という絶賛するレビューを与えることになります。これによって、リーガンは、意図せず新しい様式である「白いエクリチュール」を獲得することになったわけです。



  そして、さらに奇跡的に、鼻を失うだけですんだリーガンは、病室で目を覚まし、サムたちからの祝福を受けます。そして、問題の最後の場面になります。前に述べたように、残念ながら「白いエクリチュール」を獲得した瞬間に、今度はそのエクリチュールに囚われてしまいます。そのため、リーガンは、さらなる行動に出ます。それは「分泌物の中で溶解する蜘蛛のように」主体(作者)を解体する行動です。スパイダーマンであれば、蜘蛛の巣で良いのですが、リーガンは「バードマン」なので、当然「空」に溶け込むことが想像できます。

  また、リーガンはそれを実行する前に、包帯を外し、顔を確認します。取り付けられた鼻とあざによって、リーガンの顔はバードマンのように見えます。これは、バードマンを「テキスト」の中のエクリチュールの1つとして組み込んだことを意味し、元気を失ったバードマンに別れを告げます。そして、リーガンは病室の窓から悠々と消え去ります。

  そして、ラストは、病室に戻ってきたサムが心配になって窓から下を見降ろした後、今度は空を見上げ、微笑むところで映画が終わります。サム役のエマ・ストーンの大きな瞳が印象的な場面ですが、気になるのが、空の方を映さない点です。これは、シニフィアン(記号表現)を唐突に打ち切ることで、シニフィエ(記号内容)の解釈を映画の「観客」である私たちに委ねるためと考えられます。


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