過去から学ぶ力:人はいつの時代でも変わらない
「大河は、谷川の水が流れ込むのを拒まない。だからこそ、大河たりうるのだ。それと同じように、聖人はよく他人の意見に耳を傾け、受け入れる。だからこそ、天下の器たりうるのだ。」(墨子)
今日は中国の古典を読んでました。
「墨子」中国の古い時代の思想家です(先秦時代:始皇帝よりも前の時代、紀元前5世紀から4世紀の時代の人)。
「力あるもの疾(と)くもって人を助け、財ある者は勉めてもって人に分かち、道ある者は勧めてもって人に教えよ」
戦乱の時代、兼愛と非攻を唱えて、社会的差別と大国の侵略に反対する先頭にたった集団です。
時の権力者から嫌われ、絶学となり、2千年以上忘れられていたのが、墨子の思想です。
このくだりを読んだとき、「ああ、そうだなぁ。私はまだまだ谷川であり、大河ではないなぁ」と実感しました。
色々な考え方の違いを単にその場の妥協で受け入られること
こうしたことを大事に考えていました。
表面上当たり障りなく、和をもって貴し、
で波風を立てないやり方を。
でもそのリーダーシップだと行きつくところは、結局、調整型のリーダー。
私の職場で問題になっているのは、いわゆるあっちにも、こっちにもいい顔をして、誤魔化して、自分の考えをはっきりさせないリーダー。
自分がそうしたリーダーにならないためにはどうしたらいいか?
それは大河のような器になる。その心構えが必要なんだと思います。
思えば、私の師匠も大河のような度量の大きな人でした。
全てを受け止め、そして言うべきことは言い、導いてくれる。
やっぱり、そこには愛がありました。
私が反省しているのは、今になってそうした昔の人たちの教えを思い出していること。
もう少し早く気づいていたらな、と思わないでもないです。
でも、まだ遅くない、とも思っています。
先ほどの墨子のくだりの続き。
「自分の考えと一致すれば受け入れ、一致しなければ受け入れない。こんなことで、どうして度量の大きい王者と言えようか。すべて偉大なものは包容力がある。天地はぼんやりと光ってるし、大河の水は澄んでおらず、大火は明るく燃えやしない。王者の徳は、高くそびえたつものではない。だからこそ、何千何万もの人々の長たりうるのだ。」
高くそびえたつ、つまり偉そうにしない。謙虚でいる事。
そして自分を大きな器にしていくことが大事。
そうみんながその中に入れるような。受け入れられるような。
そんな大きな度量に成長できるように日々精進したい。大きな河で色々な小川から流れてくる水(考え)を吸収し、一つの流れにまとめていけるような。
私が思っていること。
科学的に進歩し、人類も進化した。
本当にそういえるのか?
私たちは人間は、何も変わっていないかもしれない、ということ。
墨子、紀元前5世紀、つまり2500年以上前の教えが、私たちの現代におしえてくれることがたくさんある。
最近思う事。
「新しい本」ばかり読んで古典を読まなくなっているのではないか?
私たちは驕っているのではないか?
だから、こうした状況になっているのではないか?
ということ。
古典を読む、昔の人の教えをもう一度思い出してみる。
「過去は私たちにとって最高の教師」
希望を抱く将来をイメージするため、過ちを繰り返さないため、過去という教師からもっと学びたい。
そう思います。
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